日本語のために
本書は昭和四十年代に盛んに取り上げられていた「国語改革」の動向というものを見、それについての丸谷才一氏の意見――当時の論調と氏の考える国語改革のあり方というもの――が書かれている本である。
三十年以上も前のことだから、「国語改革」なんていう動きがあったことすら私はよく知らない。ふぅむ、みんなそんなことで喧々囂々していたのか。
[1] 特に前半の I 国語教科書批評、II 未来の日本語のために 現在の日本語のために
[2] 丸谷のいうように、ローマ字を教える必要などないだろう。せいぜい英語教育のさまたげくらいにしかならぬ。
[3] 新聞やニュースのテロップでもこう出ている。
[4] そういえば村上春樹もなにかのエッセイで日本にはいわゆる「標語」と呼ばれる看板が多すぎる、目障りだ、というようなことを言っていた。
子ども向け英語絵本。― 快読100万語!ペーパーバックへの道
この本に従って最近イロイロ手を付けている。
そこでちょっと面倒だったけど、母校の大学図書館で借りて、もりもり読んでいる。(本書を読んだ人はわかると思うけど、とりあえず多少は英語が読める人でも「絵本レベルから始めよう」というのがこのほんのメソッドだから、もりもり読んでいる、とはいってもそういう絵本レベルを読んでるんだけれども、である。)
さすがに大学図書館にはESL (English as a Second Language) の本がたくさんあってありがたい。これが市立の図書館なんかじゃこうはいかないだろうなぁ。
今読んでいるのはOxford Reading Treeというシリーズの本。
始めは全然期待してなかったんだけど、これがなかなか面白い。途中から話がだんだんストーリー性を帯びてくるのだ。新しく移り住んだ家の隠し部屋にあった箱から、子どもたちが魔法の鍵を発見する。
で、鍵が光と魔法が発動して、子どもたちはいろんな場所へ冒険に行く。バイキングと会ったり、意地悪な魔法使いをやっつけてカエルに変えられていた王様を助けるとか。
ものぐさ精神分析
かなり昔に中々面白いからと親に勧められた本である。確か、高校生の時だったと思う。
理解の授業でダーウィンの進化論とか、相似器官、相同器官をやっていて、キリンの首が長くなったことについて話している時に、「象は鼻が長くなりたい、と思ったから長くなったんだという面白い説が書かれた本」と教えてもらったのだ。そうそう。ついこの間、今この本を読んでいると言ったら同じようなことを言っていたので、間違いない。
どうもその部分は、「擬人論の復権」の中の、「……ある生物は他の生物に寄生することをこの地球上で生きる一番いい方法だと思っているのである」(P.168)辺りのことらしい。
また、「鼻あるいは首を長くのばそうという確固とした内在的決意に導かれている」(P.169)とも書かれている。
それはともかく、中々面白い本だった。
しかし、内容の重複について著者自身あとがきに書いているけれども、その通り本当に重複しているところが多い。重複のお陰でフロイトについて少しわかった気もするけれど。今までユング派の河合隼雄の本を多く読んでいたので、フロイトについてはよく知らなかったのだ。
それにしても、フロイトって本当に性的なことばかり言ってるんだな……重複しているせいでそう感じるのかもしれないけれど……よくフロイト=セックスとか言われてるけど、成程、これじゃあそう言われても仕方ない。
日本の近代を精神分裂病者と見立てて考える、という試みは非常に面白いと思った。わかりやすいし、納得できる部分も多い。
中盤はひたすら精神の性的解釈とでもいうべき理論ばかりだった。まァフロイトをベースにしているから仕方ないというか当然というか……
重複が多いので、あとがきで著者自身が言っているとおり
「日本近代を精神分析する」「国家論」「性的唯幻論」「セルフ・イメージの構造」「時間と空間の起源」
だけを読めばいいかもしれない。
しかし、この人の思考のベースになっている「共同幻想」というものについては、ひとつひとつ読んでいったほうがずっとよくわかるだろう。何度も繰り返し出てくるから。
「自己嫌悪の効用――太宰治『人間失格』について」は、共感する部分が多かった。
みんな太宰を認めてあげるというか、あのデストロイヤーぶりに晦まされてしまうというか、けなす人はいない(少ない)気がするけれど、『人間失格』なんかには否定的な立場だったりするので、ここで同意見の人がいて、けっこうスッキリした。そうだよ、葉蔵って弱っちいナル君だよ、という。
それから、非常に納得させられたのは「自我構造の危機」の中で近代的自我について書かれている部分。(P.279)長いので引用は差し控えるけれど、とても納得できた。
本書は以下続巻があるので、それも近々読みませう。
熊を放つ/上下
読み終えるのに、とても時間がかかった本書。それというのも、殊に上巻の前半が非常に読みにくかったせい、である。
しかし、果たしてアーヴィングの文章が読みにくいのか、訳者の訳が読みにくいのか、判断つきかねるので、まだその結論は出さないでおくことにしようと思う。おそらくその両方ではないかと予測するけれど。
- 作者: ジョンアーヴィング,John Irving,村上春樹
- 出版社/メーカー: 中央公論社
- 発売日: 1996/02/01
- メディア: 文庫
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と、いうのも、やったらめったら読みにくかったのは、上巻の始めから描かれている動物園の描写のところなのだ。上巻も後半になってくると、多少読みにくさは減る。(まぁやっぱり読みにくいけど)
特に動物園の建物の描写は最悪で、想像力貧困のせいかもしれないけれど、どんな建物や風景なのか、さっぱり想像ができない。あんなに細部の描写はしないでほしい。全体像が全く考えられなくなってしまう。
ところが、後半に入ると物語はぐっと読みやすくなる。
下巻で起こる数々の政治的要因がらみのドラマは、その基礎知識不足によって理解不能なのだが、明らかに上巻を読み上げられないのとは、理解不能の理由が違う。なんというか、きちんとストーリーに入り込んで物語が進んでいくのである。
この小説はアーヴィングの処女作ということだから、やはり始めの方は物語る未熟さが目立つけれど、次第に上手くなり、下巻に入る頃になると技術的な面を通り越して、物語そのものを描くに至った――ともいえるのかもしれない。
ということもあって、「アーヴィングの文章が読みにくいのか、訳者の訳が読みにくいのか判断つきかね」て「結論は出さないでおくこと」にした。
しかし、それにしても上巻の前半は読みにくすぎる。これは本文がどんな文章であれ、訳者の手腕というやつでもう少しどうにかなるのではないか。
故に「訳者としての村上春樹」は、技術職者として徹しきれない点で――おそらくそのせいでこんな下手な(!)訳になってしまうのだろう[1]――あくまで作家 の翻訳としか言えないのかもしれない、と思った。
別にそれは悪いことではない。それがうまく作用すれば、素晴らしい作品に仕上がることがある。技術者としての訳者にはできないくらい、素晴らしく訳すことができる時がある、『金持ちの青年』[2]のように。また、技術的翻訳者にはなれないものが、彼を作家たらしめているのだろうと、改めて思った。
この物語で一番読みやすくて(読みやすいというのは良い小説と呼ばれる第一条件のひとつだと思う)面白いのは、第二章のノート・ブックだ。
下巻はわりによく書けているのだけれど、第三章「動物たちを放つ」に入るとやはり精彩を欠いてしまう。
それも「やったら読みにくい」と思った第一章「ジギー」の必要な蜂の数、の続きになってしまった途端、なのだ。つまり、このシーンがどうも読みにくいらしい。
それでも、第三章の場合は、面白かった第二章とも内容がリンクしている(例えばエルンスト・ヴァツェク=トルマー)からまだしも、であるけれども。総合すると「下巻もわりによく書けている」になるのだろうか。
その第二章ノート・ブックでも、やはり「動物園偵察」はいまいちだった。でも短かったし、何より、ジギーのO. シュルットに対する執拗さというものはよく表現されていた。
でも一体、 O. シュルットが何だっていうんだ?グラフはジギーのためにO. シュルットにまで手を出したのか?それともO. シュルットは何かの象徴なのか?(たぶんそうなんだろう)O. シュルットという存在についての定義はいまいちよくわからない[3]。
しかし、ノート・ブックが一番面白かったとは言え、私はオーストリア周辺のことについて知らないし、ましてやWWIIの頃の歴史なんて知識ゼロに近いので、全く理解できないところも多々あった。
特に驚いたのは、とにかくいろんな人種が入り乱れるていること。だいたい、セルビア人とセルビア=クロアチア人とクロアチア人と……なんて違いも何も全然!わからないんだから、お話にならない。
それに、聞いたことのない名前がたくさん出てきて、本当にこの辺りのことは何もわからないなと痛感した。
だって名前を見れば、ドイツ人かイタリア人かスペイン人かイギリス人かフランス人かロシア人か中国人か、とかくらいはわかるじゃないですか。外見的特徴だって多少なりとも想像つくし、喋っている言語だって予想できる。
でもこの辺りのことは想像もできなくて、政治的なことになるとなおさらさっぱりだ。村上春樹はこんなことにも詳しいのか……とびっくりしたけれど、「これだけの長編を訳すことはとても僕一人の手には負えなくて、結局途中から(中略)五氏とチームを組んで作業を進めることになった」(P.297)と訳者あとがきで言っていた。なるほど。
この五人の人の中に絶対!オーストリア周辺に詳しく、WWII頃の歴史に精通している人がいたのだ、きっと。翻訳の上だけでなく、その辺もアドバイスが多々あったはずだ。
でもそれも当然という気もする。いろんな事が入り乱れすぎて、とても一人では訳せない作品だろうと思う。 しかし、それなら後半部分から読みやすくなってきたのも頷ける。「それにしても上巻の前半は読みにくすぎる。これは本文がどんな文章であれ、訳者の手腕というやつでもう少しどうにかなるのではないか」というのも、あながち外れた意見でもないような。
アーヴィングはあと、『ガープの世界』とか『サイダーハウス・ルール』とかも読みたいな。
果たしてどんな評価になるのか?
Original: "Setting Free the Bears", 1968
notes
[1] なかなかどうして、ひどいことを言っている。当時の自分……。
[2] 『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』で村上が訳している小説。
[3] 評論を読めば解説してくれるだろう。
太宰治・人と作品 1
恩師に借りた本。この清水書院のCentury Booksというのは作家についと作品について書かれたシリーズで、全38冊あり、恩師は全て持っているそうだ。さすがです。
授業で使う(勉強する)ために若い頃買ったらしい。確かに授業で使えそうで、ためになる。そんな本である。
このシリーズで読んでみたいのは、やはり漱石と、佐藤春夫とか芥川、正宗白鳥、坪内逍遥、田山花袋など、どんな作品を残したのかほとんど知らないような人たち[1]だろうか。これ一冊ですごくわかりそうだ。
太宰について、生い立ちなどは思い出とか、それこそ富嶽百景、東京八景と内容的には重複していた。ただ、小説には書かれていないこと、特に師匠の井伏鱒二のことや、友人の壇一雄の行動なんかがよくわかる。補完にもってこいといえよう。
しかし、つくづく、こんなにどうしようもない人を、井伏鱒二をはじめ、借金されたりした仲間の友達はよく見捨てなかったなァと思った。見捨てないどころか、みんな面倒見よかったりする。
太宰が無茶苦茶するのが一度や二度なら、わかるけれど、読み進めて溜め息が出るほど、この人何度もどうしようもない。結婚相手まで世話した井伏先生の立場はどうなるんじゃい。だいたい、始めからして「会ってくれなきゃ自殺する」[2]だもんなぁ。本当に滅茶苦茶な人だ。
それでもみんな最後まで手を差し伸べてくれたところを見ると、何か人を引きつけるものを持った人だったのだろう。
作品紹介では主な作品を取り上げていて、あらすじとプラスαのところというのがわかって、よかった。
とにかく、太宰はつくづく無茶苦茶な人ということがよくわかる本。
そして改めて、井伏先生を尊敬。
notes
[1] 一般に知られていないという意味ではもちろんなく、無知な私が知らないだけ。だいたい、「正宗」なんて聞いても「菊正宗清四郎」しか思い浮かばない。本当に国文科出なのか?(菊正宗清四郎は一条ゆかりの代表作『有閑倶楽部』の登場人物。この漫画は主要登場人物の名前が全てお酒から取られている。)
[2] 太宰は井伏鱒二にそう言って面会の機会をもぎ取った。
オンリー・ミー ~私だけを~
友人が貸してくれた本なのだが、 けっこう長いことほっぽり出してあって[1]、次に会う時までに読み終わらねばならぬ!と息せき切って読み終えた。なぜなら、前半はいまいちだからだ。
しかし後半はすごく面白くて、電車の中で何度も肩が震えてしまった。ま、あれは笑っちゃイカンと思うから余計におかしいというのも大きいが。
友人はチャゲ&飛鳥のところが面白いと言っていたけれど[2]、他のところが面白かった。ツボが違うんだな。チャゲ&飛鳥も面白かったけど。
自分的なヒットは、「MAH MAH MAH」とチャゲ「あんドー」飛鳥のあんドー=三谷幸喜ってところ。[3]
一番おかしかったのは、言い間違いの話。「振り返れば君がいる」には爆笑だ。
その他、後半に行けば行くほど笑えた。
しかし、なんだかこの人に共感してしまうなァ。誰もいないプールで水着脱いだり、泡風呂の栓抜いてみたり、してしまう気がする、ナチュラルに。[4]
この人、不運なところはあるけど、至ってフツーの人ですよ。
フツーの人が不運だとこんなに面白いものなのか。あ、だから幸喜様[5]はフツーじゃないんだぁ。そっかァ。
notes
[1] 昔から私は人が面白いと勧めて貸してくれる本に興味を示さない天邪鬼(?)タイプの人間だった。
[2] 清書している今となっては、内容など微塵も覚えていない…。
[3] この辺はおぼろげに記憶があるような?
[4] 大・問題発言。当時の私は一体何を考えていたのか。この本の内容をろくに覚えていないので何とも言えないが、滅多なことは言うものではない。冷や汗が出た。
[5] 三国志のRPGのところであった話。あの幸喜様ーっていうの、面白い。(と、当時の注釈にあるものの、今となっては記憶の彼方…)
ソフィーの世界~哲学者からの不思議な手紙/上
哲学の本というのは初めて読んだ。この本、当時バカ売れしたベスト・セラー本だが、それにしては難しい気がする。まぁ、哲学の本なんだからある程度難しいのは当たり前か。
色々な哲学者の色々な、そして微妙に違う主張が続くので、途中でわけがわからなくなり、オマケに時代考証もわからなくなってきたので、鉛筆で線を引き、インデックスをつけてしまった。メモもした。付ける過程で、簡単に読み返したりもしたし、時代ごとの分類もしたので、だいぶ整理された。
と、夢中になるくらい、すごく面白かった。
- 作者: ヨースタインゴルデル,須田朗,Jostein Gaarder,池田香代子
- 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
- 発売日: 1997/10
- メディア: 単行本
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この本を読んで、今までおぼろげだったことや、時代について、とてもよくわかることが多かった。
例えば、ソクラテス、プラトン、アリストテレス。この辺の人たちはもちろん名前は知っているけど、前後関係とか、正確な時代、そして哲学思想はよくわかっていなかった。なぜなら歴史の授業でちょっとしかやらないから。
基本に、学校の授業で学んだから覚えている、というのがほぼ全域に渡る知識なのである。殊に歴史や政治・経済など文系はほとんどそうで、逆をいえば、学校でやらないことは何もわからないに等しく、そして哲学(倫理学、宗教学とか)の授業はなかった!
個々の時代を見ていくと――
ギリシア哲学では、なんとなくソクラテス、プラトン、アリストテレスの外見が想像できるようになった。フフ。これは理解において非常に有益といえよう。
ソクラテスは記述の通り、チビで、デブで、目つきが悪くて――三白眼のやぶ睨み――背が低くて栗色のどーしようもないもしゃもしゃくせ毛を無造作にしていて、古代ギリシア人が着ていたであろう麻っぽい布[1]を纏った姿。(しかしこの時代の人はどんな服を着ていたんだろ??)あたかも肉丸太が布を纏っているような……
プラトンは「すてきな若者」(p.105参)と書いてあるので、なかなかスマートな男の子。色素がちょっと薄くて、目が大きく黒目がち(瞳の色は何色かな?)で、中肉中背…『ふんわり狩人』に出てくるエオン・エキス[2]風。
最後にアリストテレス。この人はアレクサンドロス大王の家庭教師をしていたことから、なんか大王とイメージがごっちゃになっている。学者というよりはもっと活達なイメージ。髪は長めのブラウンで、背が高く、体格もよくて、考え出すと何もしゃべらず、黙々としていて、赤い服をよく着ており、しゃべり方は言い切り型で、とても理論的かつ、非常に自分をしっかり持った人、というイメージ。完全に偉大なるアレクサンドロス大王のイメージが混ざっている。大王がどんな人だったか知らんが、「王」の持つ風格がアリステレスにもあった気がする。威厳のありそうな人だ。
と、こんなイメージをさせてくれるのが、この本のいいところの一つかと思う。
インド-ヨーロッパでは、語源的にヨーロッパが「インド-ヨーロッパ」に分けられると知り、正直驚いた。しかし、その分類の特徴として「多神教」ということをあげていることに、なるほどと思う。そう、ギリシア神話にはオリンポスの神々がいる。
このインド-ヨーロッパには「サンスクリット」が共通ベースであるということだが、これはちょっと意外だった。
サンスクリット=梵字=インド&仏教(リグ・ヴェーダとか)と思っていたので、サンスクリットはアジアオンリーのものだと漠然と捉えていた。
でも語源の例を見て(p.196参)、そうではないことがよくわかる。
セム語族のところでは「エルサレム」というものがほんの少しわかってきた気がした。
アブラハム、モーゼ、ダヴィデ、ソロモン、バビロンの捕囚、イエス……このあたりの認識はかなりごっちゃになっていて、ここで少し整理された。「バビロンの捕囚」なんかは歴史の授業で習うものの、そもそもユダヤ人についての知識がないので、??だったのだ。
ざっくり言って、現在は、「ヨーロッパ=キリスト教」と言えるだろう。ところが、ヨーロッパの文化は、辿ると古代ギリシア・ローマにあると学校では教えられる。思想的にこの時代に民主主義が興っていて、アテナイは文化・時代の中心だった。そしてこの頃、イギリスとかフランスなんて超ド田舎だった。中世の頃ですら、ギリシア・ローマから見れば、全然田舎だった。イギリスが、である。アメリカではなく。
そのヨーロッパ=ギリシアはそもそも多神教で、しかし現代はヨーロッパ=キリスト教(一神教)、つまり
・イエスが出現する前はギリシア神話の世界で、紀元後から徐々にキリスト教になって多神教→一神教になった
・ユダヤ教~→キリスト教
という認識でいて、それ以上でもそれ以下でもなかった。
大まかな流れの中で、これらは最終的に一緒になった、ユダヤはヨーロッパの中の一つの人種だ、となんとなく捉えており、その中で、小さい種族としてヨーロッパのそれまでの思想(=多神教)と違う神サマを持っていたのカナと思っていたわけである。
でも要するに、
ユダヤ(セム)とヨーロッパ(インド=ヨーロッパ)はそもそも異なる文化を起源としていたわけだ。これには深く納得。
イスラエルがイスラム教の聖地であることも、イスラム教とユダヤ教、キリスト教がなぜ同じ母体、そして聖地を持っているのかも、単に「同じ」だったのだ、としか認識していなかったけれど、だって語族が同じなのだ、逆に言えば同じであって当たり前なのである。
このセムというのには本当に目からウロコだ。なんせ、ユダヤ人はヨーロッパ人と同じだと思っていたのだ。つまり
ヨーロッパ
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この図式の認識だった。後世になっても「ユダヤ人」は何かと色々あるが、それは殊に目立つ人が多いとか、たまたま特定されたせいで、迫害されたりするのだと思っていたのだ。なんの知識もなく。
でも違うのだ。何が違うって、そもろん人種が違うのである。
<異文化>
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なんだな!それが、様々な問題の大きな理由の一つであると言えるのではないか、ここへ来てようやく思い至る。
このユダヤの人々の神に対する思想を、宗教を、本書は実によく教えてくれた。
ちなみに、「ハム・セム語」とアンリが『銀のマドモアゼル』[3]で言っていたセムってこのことか!と理解。勝手にどっかアフリカかなんかの語族だと思っていた。しかしまだ「ハム」がなんなのかわからん。
中世も興味深かった。中世は歴史の授業でやるので、多少なりとも予備知識があるのでより面白く感じられたのかもしれない。しかし千年も続いていると言われれて、改めて驚く。
ローマ-カトリックは、歴史の授業による知識もあるし、ここに来るまでに前述ですでにローマの状況がよくわかっているので、東ローマができる過程がすんなり理解できた。学生当時、西ローマと東ローマについて覚えるのが大変だったことを覚えている。
西ローマは476年に滅びるが、東ローマはそれから千年近く残る。しかし、西ローマが滅びると、授業は西洋史中心に進むので、そのまま教会教皇権期に入り、ずーっとその辺をやるのに、中世も終わりごろの1435年になって、忘れていた東ローマ帝国滅亡が突然出てくる。すでに西ローマなんてものは存在しないわけで、ごちゃごちゃになるのも道理だろう。その辺がよくわかる。
そして教皇から権力は移り絶対王政の時代がやってきて、産業革命、市民革命……流れとつながりが見えてきた。
ルネサンス時代の並行するキー・ポイントは
・宗教改革―マルティン・ルター、免罪符廃止、聖書普及、プロテスタント
・大航海時代―コンパス、火薬、印刷技術
と認識されているのだが、どうやら貨幣経済、信用経済の時代に入るのもこの頃らしい。そうかァなるほど、と膝を打ちたくなる気分になった。
と、いうのも、学校で上記のキー・ポイントの内容は世界史で、貨幣経済については政経で学ぶので、完全に別々のものとして学習していたからである。自分でつなげたり、時代の出来事としてトータルでとらえるほどの理解も知識もなかったので、わからなかった。この辺りの事は同時代に起こっていたのだな、ふぅむ、ナルホド。
コペルニクスなどにも、同じ様なことがいえる。
コペルニクス、ガリレイ、ニュートンについてはもちろん知っているけど、この人たちについて詳しくやるのは理科の授業なので、いまいち歴史の中での位置が捉えにくい。この人たちも「16世紀~17世紀の人だったのかァ」と改めて気づいた。自分の脳味噌だけでつなげて考えられないのだ……。
しかし、地動説など、その当時の人の考え方や信仰を覆す説が出てくるわけで、それって当時としては言ってみれば神への挑戦というか、学問だけの問題ではなかったはず。思想が如何にあるかで、どう考えるかが大きく左右されると思うと、物理学にしろ天文学にしろ、そこだけ切り取って考えるのでは、本当のところがわからないよなと改めて感じる。だって新しい説を生み出すのも、新しい法則を発見するのも「人」なのだから。
バロック――「いびつな真珠」(p.289)という意味の時代も、「バロック音楽」の時代があるのはもちろん知ってたけれど、1600年代、16世紀から17世紀という認識はほぼなかった。無知極まりないな。
本文中に「わたしは考える、だから私は存在する」(p.303)とあって、それって「我思う、故に我あり」とイコールだと気づいて、これか、と思い同時に訳の妙だなと感じた。しかし、その理論はイマイチ(どころか全然)??だ。
この本を読んでいて強く感じさせられたのは、学校で哲学(思想)に関係している事を、バラバラの科目で習っているので、話が全くつながってこないんだな、ということ。そしてどうして哲学を授業でやらないんだろう?ということと、哲学を学ぶべきだ!ということ。
だってよく考えてみれば、歴史上の多くの出来事は人間によってもたらされ(自然がもたらすものもあるけれど)、その人間というのはその人の考え・思想だったり、時代の――地域の風習や思想で動いているのだから、その時代の人々がどんな考えをもっていたのか?どんな哲学を持っていたか――で歴史は動く。
つまり、そのところをやって、初めて××世紀に△△が発明された、ということが理解できるんじゃないのだろうか。何事も起こる地盤・基盤というのがあるわけで、それがわからずして建ち上がったものだけ見ても、なかなかその構造の全体を把握することはできないと思う。
ちなみに、作者はギリシア哲学に頁裂きすぎ。というか、古代哲学が専門の人なのか?ルネサンス、バロックの短さと比べると、かなり長い。まァ、ギリシア哲学は基礎だからということかもしれないけれど……それにてしも、デカルト?短すぎる。この説明だけじゃわからん!とてもソフィーのようにはいかないぜ。
次回、下巻で一番興味があるのは、マルクスだ。
マルクスっちゅーのはもーどこでもかしこでも、小説だろうが丸谷の対談だろうがとにかく「マルクス主義」っちゅーのが出てくるというのに、「資本論」のさわりを授業でやった程度の知識しかないのだ。
あーとにかくわからないことだらけ。
で、あることがよ~くわかりました。
Original: "SOFIES V ERDEN Roman om filosofiens hitroie", 1991
notes
[1] 貫頭衣?本書には「ソクラテスはとんでもなくみっともない男」で「チビで、デブで、目つきが陰険で、鼻は空を向いていた」と書かれている。(p.90参)
[2] 名香智子の漫画。そういえばこのエオン・エキスはギリシア人だった気がする。ちなみに公爵シリーズ『貴婦人は頷かない』で、アテネーの父親ではないかと疑われたのもエオン・エキス。このエオン・エキスは黒髪。名香智子もスター・システムを採っているのだろうか。少なくともアンリに関してはそうかもしれない。
[3] これも名香智子の漫画。
無意識の構造
個性的であるとか文学的であるとかいうことをまったく考えなければ、河合隼雄はもの凄く文章が上手である。そう深く思わせる本だと思う。
とても難しい内容なのに、実にわかりやすい。丁寧に説明されているし、何より文体が、というか文章そのものが軽い。のだ。
前回の『子どもの宇宙』よりは内容も高度だったし、ずい分学術的だったせいで、難しいことは難しいのだけれど、それにしたって他の人に同じ事書かれても、きっと理解できないと思う。
ユングの言う、「普遍的無意識」というのは、よくわかる気がする。卒論(村上春樹作家論)で、「なぜ羊なのか、そのシンボルの理由」というトピックを書いたけど、つまりこういうことなのだ。人の普遍的無意識の中に存在するシンボルとしての羊。
ペルソナのところも大変よくわかった。それにしても、アニマ=エロス、アニムス=ロゴス、というのには深い納得を感じる。男はやっぱエロスだな。うむ。
夢のところもとても面白くて、自分の夢も河合先生に聞いてほしいくらいだ。
色んな意味で勉強になる本です。河合氏の他の学術的な本ももっと読みたい。
面白かったです。
のだめカンタービレ #23 - The Last Lesson
最終巻!?
11/27に新刊が出ることはAmazonで見て知っていたけど、朝ラジオCMで
「感動のフィナーレ!」
的なセリフを耳にして、びっくりしながら本屋へ向かい… 最終巻だった。
そろそろ終わるだろうとは前巻22巻でも思ったけど、続き1冊で終わるとは……!完全なる想定外。
あの展開で後1冊で終わらせられんのか!?
と思いながら開いた。
結論からいうと、
終わっては、いた。
のだめがセンチメンタル☆ジャーニーから三善ハウスに帰り、ヤドヴィと音楽を楽しんで…までは悪くない。
でもそこから、千秋が現れ、のだめの演奏に感動して…の下りが、
ああ…終わらせようとしている…
感、満載な気がした。
それでも、もう一度読み返してみて、まぁこれはこれでよくまとまっている、と言えるのかもしれない、と、思った。
ここで終わらせないとどこまでも続けられるし――これからコンクールとか、オクレール先生の思惑とか、ミルヒーサイドとか、黒木くんとターニャとか、ネタはいっぱいある――区切りとしては十分アリなところなのかもしれない。
ということで、
一読目:★★★☆☆
と思ったけど、
二読目:★★★★☆
でいっか、という気も、した。
でも、こんな風にいきなりさくさくさくーっと終わらされて、さすがに拍子抜け感は否めない。
前21、22巻で、のだめが暗黒スパイラルにはまったところ、すごくよく描けていたと思うので、なおさらだ。
よくここまで深いところまで描いたな、と感心していたし、それだけに、のだめがこの底からどうやって這上がってくるんだろう、というところにものすごく関心を持っていた。それがクライマックスになるところだろうと、予測していたのだ。
音楽に対して、正面から向き合ったら挫折して、でもあと一歩のところまできている。ここから掴み取るだけ、というところこだったと思う。
これがのだめと千秋の恋愛マンガというなら、そんなところにウェイトを置かなくていいのだろう。
でもそれだけじゃなかったはず。(と思いたい)
それなのに、
のだめが掴み取るところがほぼまったく描かれてなくて、千秋のモノローグ解説で終わっちゃった。
と、私には読めた。
あぁ…なんて残念な終わり方なんだ…!!
八割方、いいと思うんですよ。こういう終わりもアリかなってさ。
でも、そこだけはちゃんと描いて欲しかった~~
それにはこの1冊では、やっぱり無理だったと思う。
2台ピアノで始まりのモーツアルトを千秋と弾くのも、いいエピソードだけどさ。
でも、のだめの壁を千秋に語らせて終るとは…
結局、主人公は千秋だったってことか?
ここまで書いたのに、もったいないなぁ
というのが、正直な感想である。
作者の体調不良とかで、なんとか終わらせたかったのか?と思ってしまうほど。
23巻かけて終わりがこれか…
いいシリーズだし、面白くて大好きだし、最後がこれ、本当にもったいない……
しかし、なにはともあれ、超大型漫画がまたひとつ完結しました。
クラシックの世界に誘ってくれる、名作として残っていくことでしょう。
レヴィ=ストロース
レヴィ=ストロースが亡くなったらしい。
100歳……ということは、今年生誕100年の太宰と同じ年ということか。
フランスの人類学者クロード・レヴィ=ストロースが死去、100歳 - CINRA.NET
レヴィ=ストロースの著作は読んだことがないけれど、高校生の時、橋爪大三郎先生の『はじめての構造主義』でその存在を知った。
正直自分のような人間には難しい思想の話だけれど、面白いことこの上ない本である。
偉大な人物がこうして亡くなると、日々取りとめもなく生きている自分たちは、一体何かなしえられるのだろうか、などと思ってしまう。