夜はやさし 上下
フィッツジェラルド最後の長編小説[1]となってしまったこの『夜はやさし』(原題 "Tender is The Night")、なんとも悲しさを感じさせるタイトルである。
谷口陸男氏訳の、古い版で読んだ。[2] これがなかなか曲者で、文章に読点が多すぎ、慣れるまでが大変だった。(たぶん原文(英文)のせいなのだろう。ちなみに誤訳もあるようだ。困るな、それは)読点を頭の中で「。」に変換して読めば良いのだ、と気づいてから読みやすくなった。今は村上春樹訳が出ているようなので、そちらの方が読みやすさは確実だろう。(しかし、そちらは未読だが、村上節は不可避と思われる)
また、本作にはオリジナル版なるがあるらしいけれど、その辺りの情報はないままに、覚書きした。
光り輝ける青年、「申し分のない」ドクター・ダイヴァーは、不思議と人の心を惹きつける、有能で、幸せな青年として登場する。実父に犯されたという心の傷を負って精神病を患っているニコル・ウォーレンと出会い、結婚したことで、彼の運命、人生は、後戻りできない道へと進んでいく。
精神病のニコルと、好感の持てる青年ドクター・ダイヴァーが結婚するという話の流れに、その後に起こる種々の問題――おそらくドクター・ダイヴァーにとって幸福とは言えないであろうそれらの状況――を思い浮かべることは決して難しいことではなかった。そして、「後戻りできない道へと進んで」行ったその先に、美しく、若く、健康なローズメリーが現れる。
しかし、ドクター・ダイヴァーが、自らの意思とは関係なく、ローズメリーと結ばれる事はなかっただろう。なぜならローズメリーはかつてのドクター・ダイヴァーにとって相応しい人であり、すでに彼はニコルと結婚するという「道」を選んでいた。
ニコルに対するドクター・ダイヴァーの愛は確かに家族の愛、父親の愛だった。ニコルもディック・ダイヴァーに得られぬ父親の愛を求めていた。
そしてニコルは「(前略)ご自分で人生に失敗しておきながら、それをあたしのせいにしたいのね」(p228)と言い、「患者は完全に快癒した」(p229)のだった。
ニコルにとって、ドクター・ダイヴァーとの結婚は、失われた成長期、健全で安全で完全な十代のやり直しであり、その思春期から飛び立てる準備ができると、彼女はトミー・バルバンと恋をしたのだ。
十代を飛び立とうとする若者のように。
しかし、その代償というものは必ず支払わねばならない。ニコルが指摘したように、ディックが自らの人生の歪みを――ニコルはそれを「失敗」と言ったが――ニコルのせいにしているとは思わない。彼が心の底から「ニコルと結婚しなければよかった」と思ったことはないだろう。
ドクター・ダイヴァーの人生の「失敗」は、彼が元々持ちあわせていたその決定的とも言うべき性質がもたらしたものであり、その「決定的な性質」が、ニコルの成長の代償として支払われたのだ。
そしてドクター・ダイヴァーの中では「なにかが育ちつつあ」り、「思わぬところで、ある人間、人種、階級、生き方、考え方などに対して長い間いだいていた軽蔑」(p169)は、完全な快癒を目前にしたニコルに「かぎつけ」られたのだ。
解説にもあるように、本書は著者の自伝的要素も色濃く、『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』[3] で読んだ、フィッツジェラルドと妻ゼルダの悲しい結婚生活と人生の崩壊を思い出し、この作品の中にフィッツジェラルドの心の動きを感じた。彼は「富嶽百景」を書いた太宰のように、この小説に彼自身を、そして彼の心の闇(病み)を描いたのだろう。
この本が世間に出て、まったく注目されなかった――フィッツジェラルドは忘れ去られていたのだ――その悲痛さはどうであろう。その後の長編『最後の大君』が未完のまま彼がこの世を去ったことを思うと、悼まずにはいられまい。
ニコルの精神を病んでいる様子、ディックが徐々に己れを崩壊させていく様は、実にていねいに、積み重ねられるようにして描かれており、フィッツジェラルドの文章のうまさを感じさせる。
そしてまるでフィッツジェラルド自身のように人々に忘れられて――ニコルはいつまでもディックのことを忘れなかったが――しまったドクター・ディック・ダイヴァーの人生の終焉は、短い巻末の文章にまとめられ、忘れ去られるもの、移りゆくもの、「失われた世代」と共に、時の流れの中で遠くへ過ぎ去っていくのだろう。
notes
[1] 最後の長編『最後の大君』は未完のまま、フィッツジェラルドはこの世を去った。
[2] 下記の版で読んだ。上下巻セットの外装があった。
村上春樹版。
[3]