読書百冊意自通ズ覚書

読んだあと、何かしらの余韻を残していく物語たちを、みんなどんな風に読んでいるのだろう?The note of reading one hundred books makes you understand more clearly.

日本語のために

本書は昭和四十年代に盛んに取り上げられていた「国語改革」の動向というものを見、それについての丸谷才一氏の意見――当時の論調と氏の考える国語改革のあり方というもの――が書かれている本である。

日本語のために (1978年) (新潮文庫)

日本語のために (1978年) (新潮文庫)

 

 三十年以上も前のことだから、「国語改革」なんていう動きがあったことすら私はよく知らない。ふぅむ、みんなそんなことで喧々囂々していたのか。

 それはともかく、丸谷の主張は、丹念に検討され、氏が構築した国語のあるべき姿であるから、その主張は三十年以上を経た今でも十分通用する、と思う。
 そしてこの本を、真面目に教科書を作っている人たち(特に小学校の)や、小・中・高の国語の教師をしている人に読んでもらいたいなぁと切実に思う。[1]なにしろ大切なことをたくさん教えてくれるのだ。
 
 びっくりしたのは、小学校四年生からローマ字を教え[2]、ゆくゆくは日本語をローマ字表記にしよう、と考えていた当時の人たちである。どうもそういう意見の中で「国語改革」は論じられていたらしい。
 丸谷は親切だから、そういう意見に対して「日本語はわかち書きができない」とか、「漢字は表意文字だから、ローマ字で日本語を表記しても伝達が正確に行われない」とか、どうしてローマ字表記はダメなのか、この中で説明してくれているけれど、丸谷の解説にいちいちもっともだと思うと同時に、日本語はわかち書きできないとか、ローマ字では意味が通じないとか、そんな当たり前のことが(この人たちには)どうしてわからないのだ!、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
 とびっくりしてしまった。
 もっと正確に言うなら、当たり前のことなのに、それを追いやってどうしてローマ字表記を、などと考えられるのか、そういう考えを持つ人がいるということが信じられない、と言うところだ。
 何考えてんだ?日本語ってものを本当に理解していないんだなぁ。
 
 と、このように大体において賛成だけれども、一つだけどうかなと思うのは、仮名遣いを旧仮名遣いにしようというもの。
 これはもう無理なんじゃなかろうか。そこの辺り(常用漢字の表記のこととか)は今のままでいくしかないと思う。まぁこの本が書かれた当時と今とでも違ってきていると思うので、もしかして当時はまだ旧仮名遣いの主張をする余地があったのかもしれないけれど。
 
 ただ、小学生にもっと漢字を教えろとか、常用漢字の文字数を増やせとか、「写しん」とか「体そう」とか「ゆ着」[3]と書くなとかは、もういちいちごもっとも!である。
 さらに、ずっと丸谷は言っていることだけれど、古典(漢文)を学ぶ重要性についても同感だ。
 その文化的意味付けとしては
現代日本文明には古典主義が欠如してゐる。西洋ふうの古典主義がないだけではなく、かつての日本がたしかに持ってゐた、古典主義的ともいふべき精神と感覚をも僕たちは失つたのである」(p. 67)
 ということ。
 西洋文明が入ってきたと同時に、日本は古典主義を捨てて、表面だけ西洋的なものを取り入れることに夢中になっちゃったんだなー。そのおかげで、今の私たちは「文章を書く力が無残に低下して」(p. 57) しまったのである。
 文字=文明なんだから、文字表記力や文章力が低下するってことは文化が低下するってことなのだ!実際そうなっているし。もっとちゃんと国語の勉強をさせようよ~!(そして冒頭★に戻る)
 
 ひとつひとつ内容を取り上げていくと数が多すぎるし、だいいちそれなら「百聞は一見にしかず」で読んだ方がいいと思うのでこの辺でやめるけれど、もしこの本の中でもっともだと思い、みんなにわかってもらいたい箇所を挙げよと言われたら、内容の大部分であることを付け加えておく。
 
 ちなみに、日本の街並みの汚さは自分も常々感じるところもあって丸谷の意見に大賛成、そして「看板が多い」という指摘に納得。なるほど[4]

 最後に。
 私はこの本を通勤電車の中で読んでいたのだけど、
「『アイはキャットである。ネームはまだナッシング』」(p.104)
のところで我慢しきれなくなり肩を震わせて笑ってしまい、ヘンな目で見られてしまった。
 アイはキャット……おかしすぎる。
 
notes
[1] 特に前半の I 国語教科書批評、II 未来の日本語のために 現在の日本語のために
[2]  丸谷のいうように、ローマ字を教える必要などないだろう。せいぜい英語教育のさまたげ、、、、くらいにしかならぬ。
[3] 新聞やニュースのテロップでもこう出ている。
[4] そういえば村上春樹もなにかのエッセイで日本にはいわゆる「標語」と呼ばれる看板が多すぎる、目障りだ、というようなことを言っていた。