読書百冊意自通ズ覚書

読んだあと、何かしらの余韻を残していく物語たちを、みんなどんな風に読んでいるのだろう?The note of reading one hundred books makes you understand more clearly.

熊を放つ/上下

読み終えるのに、とても時間がかかった本書。それというのも、殊に上巻の前半が非常に読みにくかったせい、である。
 しかし、果たしてアーヴィングの文章が読みにくいのか、訳者の訳が読みにくいのか、判断つきかねるので、まだその結論は出さないでおくことにしようと思う。おそらくその両方ではないかと予測するけれど。

熊を放つ〈上〉 (中公文庫)

熊を放つ〈上〉 (中公文庫)

 


 と、いうのも、やったらめったら読みにくかったのは、上巻の始めから描かれている動物園の描写のところなのだ。上巻も後半になってくると、多少読みにくさは減る。(まぁやっぱり読みにくいけど)
 特に動物園の建物の描写は最悪で、想像力貧困のせいかもしれないけれど、どんな建物や風景なのか、さっぱり想像ができない。あんなに細部の描写はしないでほしい。全体像が全く考えられなくなってしまう。


 ところが、後半に入ると物語はぐっと読みやすくなる。

 下巻で起こる数々の政治的要因がらみのドラマは、その基礎知識不足によって理解不能なのだが、明らかに上巻を読み上げられないのとは、理解不能の理由が違う。なんというか、きちんとストーリーに入り込んで物語が進んでいくのである。

 この小説はアーヴィングの処女作ということだから、やはり始めの方は物語る未熟さが目立つけれど、次第に上手くなり、下巻に入る頃になると技術的な面を通り越して、物語そのものを描くに至った――ともいえるのかもしれない。


 ということもあって、「アーヴィングの文章が読みにくいのか、訳者の訳が読みにくいのか判断つきかね」て「結論は出さないでおくこと」にした。

 しかし、それにしても上巻の前半は読みにくすぎる。これは本文がどんな文章であれ、訳者の手腕というやつでもう少しどうにかなるのではないか。
 故に「訳者としての村上春樹」は、技術職者として徹しきれない点で――おそらくそのせいでこんな下手な(!)訳になってしまうのだろう[1]――あくまで作家、、 の翻訳としか言えないのかもしれない、と思った。

 別にそれは悪いことではない。それがうまく作用すれば、素晴らしい作品に仕上がることがある。技術者としての訳者にはできないくらい、素晴らしく訳すことができる時がある、『金持ちの青年』[2]のように。また、技術的翻訳者にはなれないものが、彼を作家たらしめているのだろうと、改めて思った。

 この物語で一番読みやすくて(読みやすいというのは良い小説と呼ばれる第一条件のひとつだと思う)面白いのは、第二章のノート・ブックだ。


 下巻はわりによく書けているのだけれど、第三章「動物たちを放つ」に入るとやはり精彩を欠いてしまう。

 それも「やったら読みにくい」と思った第一章「ジギー」の必要な蜂の数、の続きになってしまった途端、なのだ。つまり、このシーンがどうも読みにくいらしい。

 それでも、第三章の場合は、面白かった第二章とも内容がリンクしている(例えばエルンスト・ヴァツェク=トルマー)からまだしも、であるけれども。総合すると「下巻もわりによく書けている」になるのだろうか。


 その第二章ノート・ブックでも、やはり「動物園偵察」はいまいちだった。でも短かったし、何より、ジギーのO. シュルットに対する執拗さというものはよく表現されていた。

 でも一体、 O. シュルットが何だっていうんだ?グラフはジギーのためにO. シュルットにまで手を出したのか?それともO. シュルットは何かの象徴なのか?(たぶんそうなんだろう)O. シュルットという存在についての定義はいまいちよくわからない[3]

 

 しかし、ノート・ブックが一番面白かったとは言え、私はオーストリア周辺のことについて知らないし、ましてやWWIIの頃の歴史なんて知識ゼロに近いので、全く理解できないところも多々あった。
 特に驚いたのは、とにかくいろんな人種が入り乱れるていること。だいたい、セルビア人とセルビアクロアチア人とクロアチア人と……なんて違いも何も全然!わからないんだから、お話にならない。


 それに、聞いたことのない名前がたくさん出てきて、本当にこの辺りのことは何もわからないなと痛感した。

 だって名前を見れば、ドイツ人かイタリア人かスペイン人かイギリス人かフランス人かロシア人か中国人か、とかくらいはわかるじゃないですか。外見的特徴だって多少なりとも想像つくし、喋っている言語だって予想できる。

 でもこの辺りのことは想像もできなくて、政治的なことになるとなおさらさっぱりだ。村上春樹はこんなことにも詳しいのか……とびっくりしたけれど、「これだけの長編を訳すことはとても僕一人の手には負えなくて、結局途中から(中略)五氏とチームを組んで作業を進めることになった」(P.297)と訳者あとがきで言っていた。なるほど。

 この五人の人の中に絶対!オーストリア周辺に詳しく、WWII頃の歴史に精通している人がいたのだ、きっと。翻訳の上だけでなく、その辺もアドバイスが多々あったはずだ。

 でもそれも当然という気もする。いろんな事が入り乱れすぎて、とても一人では訳せない作品だろうと思う。 しかし、それなら後半部分から読みやすくなってきたのも頷ける。「それにしても上巻の前半は読みにくすぎる。これは本文がどんな文章であれ、訳者の手腕というやつでもう少しどうにかなるのではないか」というのも、あながち外れた意見でもないような。

 アーヴィングはあと、『ガープの世界』とか『サイダーハウス・ルール』とかも読みたいな。
 果たしてどんな評価になるのか?

 

Original: "Setting Free the Bears", 1968

 

notes
[1] 
なかなかどうして、ひどいことを言っている。当時の自分……。
[2] 『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』で村上が訳している小説。

[3] 評論を読めば解説してくれるだろう。

熊を放つ 下(村上春樹翻訳ライブラリー i- 2)

熊を放つ 下(村上春樹翻訳ライブラリー i- 2)