読書百冊意自通ズ覚書

読んだあと、何かしらの余韻を残していく物語たちを、みんなどんな風に読んでいるのだろう?The note of reading one hundred books makes you understand more clearly.

夜はやさし 上下

フィッツジェラルド最後の長編小説#1となってしまったこの『夜はやさし』(原題 "Tender is The Night")、なんとも悲しさを感じさせるタイトルである。

 

夜はやさし(上) (角川文庫)

夜はやさし(上) (角川文庫)

 

 

 谷口陸男氏訳の、古い版で読んだ。#2 これがなかなか曲者で、文章に読点が多すぎ、慣れるまでが大変だった。(たぶん原文(英文)のせいなのだろう。ちなみに誤訳もあるようだ。困るな、それは)読点を頭の中で「。」に変換して読めば良いのだ、と気づいてから読みやすくなった。今は村上春樹訳が出ているようなので、そちらの方が読みやすさは確実だろう。(しかし、そちらは未読だが、村上節は不可避と思われる)

 また、本作にはオリジナル版なるがあるらしいけれど、その辺りの情報はないままに、覚書きした。

 

 光り輝ける青年、「申し分のない」ドクター・ダイヴァーは、不思議と人の心を惹きつける、有能で、幸せな青年として登場する。実父に犯されたという心の傷を負って精神病を患っているニコル・ウォーレンと出会い、結婚したことで、彼の運命、人生は、後戻りできない道へと進んでいく。

 精神病のニコルと、好感の持てる青年ドクター・ダイヴァーが結婚するという話の流れに、その後に起こる種々の問題――おそらくドクター・ダイヴァーにとって幸福とは言えないであろうそれらの状況――を思い浮かべることは決して難しいことではなかった。そして、「後戻りできない道へと進んで」行ったその先に、美しく、若く、健康なローズメリーが現れる。

 しかし、ドクター・ダイヴァーが、自らの意思とは関係なく、ローズメリーと結ばれる事はなかっただろう。なぜならローズメリーはかつて、、、のドクター・ダイヴァーにとって相応しい人であり、すでに彼はニコルと結婚するという「道」を選んでいた。

 

 ニコルに対するドクター・ダイヴァーの愛は確かに家族の愛、父親の愛だった。ニコルもディック・ダイヴァーに得られぬ父親の愛を求めていた。

 そしてニコルは「(前略)ご自分で人生に失敗しておきながら、それをあたしのせいにしたいのね」(p228)と言い、「患者は完全に快癒した」(p229)のだった。

 ニコルにとって、ドクター・ダイヴァーとの結婚は、失われた成長期、健全で安全で完全な十代のやり直し、、、、であり、その思春期から飛び立てる準備ができると、彼女はトミー・バルバンと恋をしたのだ。

 十代を飛び立とうとする若者のように。

 

 しかし、その代償というものは必ず支払わねばならない。ニコルが指摘したように、ディックが自らの人生の歪みを――ニコルはそれを「失敗」と言ったが――ニコルのせいにしているとは思わない。彼が心の底から「ニコルと結婚しなければよかった」と思ったことはないだろう。

 ドクター・ダイヴァーの人生の「失敗」は、彼が元々持ちあわせていたその決定的とも言うべき性質、、がもたらしたものであり、その「決定的な性質」が、ニコルの成長の代償として支払われたのだ。

 そしてドクター・ダイヴァーの中では「なにかが育ちつつあ」り、「思わぬところで、ある人間、人種、階級、生き方、考え方などに対して長い間いだいていた軽蔑」(p169)は、完全な快癒を目前にしたニコルに「かぎつけ」られたのだ。

 

 解説にもあるように、本書は著者の自伝的要素も色濃く、『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック#3 で読んだ、フィッツジェラルドと妻ゼルダの悲しい結婚生活と人生の崩壊を思い出し、この作品の中にフィッツジェラルドの心の動きを感じた。彼は「富嶽百景」を書いた太宰のように、この小説に彼自身を、そして彼の心の闇(病み)を描いたのだろう。

 この本が世間に出て、まったく注目されなかった――フィッツジェラルドは忘れ去られていたのだ――その悲痛さはどうであろう。その後の長編『最後の大君ラスト・タイクーン』が未完のまま彼がこの世を去ったことを思うと、悼まずにはいられまい。

 

 ニコルの精神を病んでいる様子、ディックが徐々に己れを崩壊させていく様は、実にていねいに、積み重ねられるようにして描かれており、フィッツジェラルドの文章のうまさを感じさせる。

 

 そしてまるでフィッツジェラルド自身のように人々に忘れられて――ニコルはいつまでもディックのことを忘れなかったが――しまったドクター・ディック・ダイヴァーの人生の終焉は、短い巻末の文章にまとめられ、忘れ去られるもの、移りゆくもの、「失われた世代」と共に、時の流れの中で遠くへ過ぎ去っていくのだろう。

 

notes

[1] 最後の長編『最後の大君ラスト・タイクーン』は未完のまま、フィッツジェラルドはこの世を去った。

[2] 下記の版で読んだ。上下巻セットの外装があった。

夜はやさし (上巻) (角川文庫)

夜はやさし (上巻) (角川文庫)

 

 村上春樹版。

夜はやさし

夜はやさし

 

 [3]

世界がわかる宗教社会学入門

「難しいことを易しく解説してくれる」橋爪先生に、『はじめての構造主義[1]以来、まったくを以って大・感銘を受けていたので、この「宗教社会学入門」なんてまさに打ってつけ、という思いで手に取った。しかも「世界がわかる」おまけ付き。ちょうどユダヤ教関連の本も読んでいたところだったので、補完的な意味でもぴったりだった。(補完というほど知識はないのはいうまでもないが)

世界がわかる宗教社会学入門 (ちくま文庫)

世界がわかる宗教社会学入門 (ちくま文庫)

 

 

 そして、「難しいことを易しく説明してくれる」のは今なお健在であった。例えばこれ、マックス・ウェバーについての簡単な説明。

マックス・ウェーバーMax Weber 一八六四―一九二〇)という偉い社会学者(どれくらい偉いかというと、カール、、、マルクスを除けば、、、、、、、、後にも先にも彼より偉い社会学者はいない、、、、、、、、、、、、、、、、、、、というくらい偉い、、、、、、、、のです)」(後略、傍点引用者 p. 15)

 なるほど!と思わずにはいられない。ただ一人に焦点を当ててその人物をどうこう評しているのではなく、

社会学者としての位置付け

⑵他の社会学者の中での位置付け

 という二つの点から分析した、素人にもわかりやすい解説である。この短い説明でマックス・ウェーバー社会学(者)における重要性にピンとくるわけで、いやすごい。

 以後この具合で続いていく。これこそ本当の「入門書」といえるのではないだろうか。入門書であれば HOW TO が書かれていれば及第点かもしれないけれど、よく考えたら

入門書=読む人は素人=わかりやすいか否かが最重要ポイント

なわけで、いくらHOW TOについて書かれていても、難しくて(または専門的すぎて)理解に欠けたら、それは「入門書」としての役割を本当の意味で果たしているとはいえないのだ。ふむ。

 

 しかし、イスラム教について、合理的かつ体系的で、完全であるかのように見えるのにスタンダードにならなかったのは「もっとも優れた規格がいちばん普及するとは限らない」(p. 22) という現象が世の中にはあるから……と先生は言っているが、個人的にはそういう視点では捕らえられない、と感じた。

 イスラム教はユダヤ教キリスト教に続いて生まれた宗教で、ユダヤ教キリスト教の、いいとこどり、、、、、、で作られた教えなので、完成度が非常に高いというから、「完全性」については確かに橋爪先生の説の通り、もっとも優れているのだろう。しかしスタンダードにならなかったのは、要はするに一言でいうと過激というか、極端だったからではないだろうか。よく聞く「原理主義」の情報が素人的に入っている、あくまで素人的感想だが。

 

 本書は非常に優れた解説によって書かれており、入門書としてわかりやすく素晴らしいものである。

 しかし、難をいえば「宗教」という精神的な事柄を扱うには、あまりにも達観的すぎるのではないかと思う。

 「宗教」を信じていない人、一種学問的に扱っている人の視点で描いているので、「流れ」や「歴史」はわかっても、本当はどんな教義なのかは上滑りしていて、いまいち核心を突いてこないのだ。読んでいると、それぞれの宗教からものすごく、引いて、、、いるクールな橋爪先生の姿が――自分はあくまで無宗教であり続けるという――とても強く感じられる。[2] だから、厳しい言い方をするなら、単に事実を並べているだけ、と評することもできるだろう。

 それは日本人的と言えるのかもしれないし、学問として宗教を教える立場としては、理想的な姿と言えるのかもしれない。

 けれど、それでは宗教というものを理解することはできないのではないか。

 日本人のほとんどは「宗教」と聞くとうさん臭く、、、、、感じて引きがちだけれど、世界中で「無宗教」な人々がこんなに多いのは、おそらく日本くらいのものだ。それでも、日本人は気づいていないかもしれないけれど、確かに宗教的なもの――主に仏教的なもの――はその根底に根付いていて、真の「無宗教」などは存在しないのではないか。

 なにかを信仰する必要はないと思うけれど、引きすぎて見えないものがあるのではないか。そんな感想も抱いた。

 

追記:「サグラダ・ファミリア」って「聖家族」という意味だと初めて知った。なるほど、「セント・ファミリー」なわけか。

 

notes

[1] 橋爪先生との出会いは『広告批評』。この人なんかすごいーっと思い、『はじめての構造主義』を購入し、再びそのスバラシさを認識した次第。

はじめての構造主義 (講談社現代新書)

はじめての構造主義 (講談社現代新書)

 

[2] ムハンマドアッラー(神)のメッセージを聞いたことをアッサリ「今日の言い方では、彼は癲癇てんかんだったと思われます。」(p. 104) という、このクールなコメントからも窺い知れよう。

愛は試練に満ちて―パーフェクト・ファミリー―

パーフェクト・ファミリーのシリーズで、初めて続きが気になる、と楽しみにしていた本書。

 前作[1]から、問題が起きそうなまま終わってしまった、リビーとキャスパーという二人の夫婦の物語である。

 

 この二人が、「幸せな結婚」というハーレクイン的結末のあと、夫婦の間に生ずる問題をいかに乗り越えていくか、というところが話の肝だったと思うのだけれど、しかしそれ以前に、作者はとにかく色々な人物のことを書きすぎており、残念ながらポイントが絞りきられていない、というのが最大の難点だった思う。

 この点については以前にも書いた気がするので、それはつまり、それまで(パーフェクト・ファミリー)の作品も同じような傾向にあったということで……。……。

愛は試練に満ちて (ハーレクインプレゼンツスペシャル―パーフェクト・ファミリー (PS19))

愛は試練に満ちて (ハーレクインプレゼンツスペシャル―パーフェクト・ファミリー (PS19))

 

 

 不幸な少女時代を送った主人公リビー、そのトラウマから生まれる猜疑心によって、夫・キャスパーとの家庭が崩れていく。

 その中で、リビーのトラウマの原因である前作の主人公、改心天使(?)のデイビット・クライトンとその妻・オナーの間に生まれる子供のこと、とかは、まぁいい。

 デイビットが戻ってきたことが、主人公夫婦の問題の大きな解決の糸口になるわけだし、ジェニーがデイビットデイビット、と嬉しそうなジョスにちょっとした不安や嫉妬なんか感じちゃうドラマがあっても、まぁいいさ。(この時点ですでに、余談の多さ具合がわかろうというものだけど……)

 

 だけどさ。

 

 なんでそこで、ニックとセーラの本気の恋愛が描かれなあかんのや。

 これ一つでハーレクイン一冊になるんだから、そっちで書けばいいじゃん。

 

 それとさ。

 ジャックとアナリスの幼い恋もいらんぜよ。

 次のパーフェクト・ファミリーは、大人になったこの二人にするつもりなのかと思わないでもないけど。

 

 あとさ。

 マディとマックスのストーリーもくどいんじゃー!!

 

 ベンを死なせる方向へ持って行ったり、マディにクイーンズ・メッドを相続させる流れとしてはありかもしれないし、ベンが亡くなったのはストーリ的にちょうどいいタイミングだったと思う。第一の改心者・マックスの良い人度を披露するのも忘れないあたりはさすが!なのかもしれないけど、このエピソードいらないのでは?

 

 そんなこんなで、そこかしこにジャマ〜なエピソード群が!もはや群が。

 これらの諸々のエピソードのおかげで、主人公・リビーの心の動きを描く部分が減ってしまったし、その夫(って準主役級のはず)・キャスパーに至っては、ほとんど出てこないやないかー!!

 この二人の話がメインなのに!

 

 相変わらず、リビーの揺れ動く心理描写は圧巻もので、それだけにインフルエンザにかかって弱気になったところで、デイビットとの和解が始まる、なんて形ではなくて、もっと些細な出来事を積み重ねて書き込んで、心を開くありさまを描いて欲しかった……。だってこの作者なら書けるはず。その素晴らしい心理描写が。

 キャスパーの心の動きも、正直全然足りなかった。

 モリーとの出会いで心が揺れて、逆にリビーへの愛情を確かめた、という設定だけど、だいたいちょい役の(重要な役割だったけど)モリーの抱えている問題が重すぎる。この人も、別の機会に主人公にするつもりなのかな、なんて思わせる感じだ。

 

 総じて、リビーとキャスパーの心の動きをもっと描いて欲しかった。キャスパーなんてさ、本当に少ししか出てこないんだもんな。

 リビーがデイビットに対する強い拒絶心を、いろいろな出来事を通してどうやって――どんな過程を経て――克服していくのかを、乗り越えていくのかを、読みたかった。

 

 次は、今回未解決だったジャック・クライトンとアナリス・クックがくっつくまでだろうか。あとがきによると、今回でパーフェクト・ファミリーは十作目ということで、ベン・クライトンもお迎えが来て、クイーンズ・メッドも正当たる後継者・マディに渡ったことだし、若い二人以外はいちおう落ち着いて幸せを手に入れたわけで、作者にはそろそろ違う長編に取り組んでみてほしい。『パワー・プレイ』とか『残酷な遺産』[2]とか、あんな感じのよくまとまった、完成度の高い作品を希望する。

 

 でもやはり、ペニーは文章がうまい。訳者の霜月氏も相当のベテランと思われるので、安心して読めるところがよかった。そして彼女の次の長編にも、期待してしまうのだった。

 だってこんなにけなしているけど、やぱり面白いんだもんね。

 

Original: Starting Over by Penny Jordan, 2001

 

notes

[1] 前作はこちら。

[2] 両方長編。

パワー・プレイ (MIRA文庫)

パワー・プレイ (MIRA文庫)

 
残酷な遺産 上 (MIRA文庫)

残酷な遺産 上 (MIRA文庫)

 
残酷な遺産 下 (MIRA文庫)

残酷な遺産 下 (MIRA文庫)

 

ユダヤ人と疎外社会 ―ゲットーの原型と系譜

ゲットーについて書かれたのが本書である。ユダヤ関係の本を連続して読むのなら、ゲットーは一度は勉強しておいていい題材だと思うので、適切な本だったと思う。

 

 しかし、前作の『ユダヤ人と有史以来』[1]と同様、無教養(というか、教養うんぬん以前に、理解力の問題?)の自分には、いささか荷が勝ちすぎたというか……難しかった。

 

 ただ、ゲットーという、ユダヤ人の生活の場についての論文(「本書はワースの学位論文であ」る(p.386 参照) のだ)なので、ユダヤ人の生活や、ユダヤ教について――信仰に篤いユダヤ人の生活は、そのものが信仰と言って過言ではない――よく知ることができて、良かったと思う。

 

 それから、訳者の註が原註とは別に訳註として章ごとに巻末に添えられいるのだが、これがひじょーに良かった!訳註が付いていて良かったという点と、訳註そのものが良かったという、両方の点において、である。

 訳註がとても丁寧に書かれているし、日本人(つまり予備知識のない人)を対象とした史実などの解説もあるので、本当に助かった。

 西洋では常識的な史実も、日本人にとっては常識というほどではなく、よほど歴史に造詣が深くないと知らないこともたくさんある。出来事があったことは知っていても、その詳細はよく知らない、ということも多いのではないだろうか。

 そんな点から見ても、この訳註はとても役立つ。

 

 本書について、全体的な感想を書くことは非常に難しいので、気になった箇所を一部になるが少しずつ見ていきたい。

 ちなみになぜ全体的な感想を述べることが難しいかというと、自分の頭が悪いせいで、全体像でこの難しい論文を理解することができないからである。言うまでもないが。

 

 ユダヤ人が信仰に篤いことは、諸々の出来事からよくわかるが、その信仰の篤さというのは、ユダヤ教の厳格さによるところが一つ挙げられるような気がする。そして、ほぼ無神論無宗教の日本人にとっては、信じられないくらい自分の信仰が一番!で、他の信仰を排斥する。

 ユダヤ教が分派していく中でも、どの派においても特に重大問題視されているのは、異教徒との結婚である。ここでの「異教徒」というのは、八〇パーセントくらいキリスト教のことを指しているようだ。彼らのキリスト教に対する対抗心というか、排斥態度はけっこう過激である。ちょっと無神論無宗教の日本人には、理解できないレベルではないだろうか。

 

 ザングヴィルというユダヤ人の、「かれの詩「ゴーイーム」(The Goyim) (背教徒) のなか」(p.149参)で、背教徒 (The Goyim) ――非ユダヤ教徒――について描かれている。その中には、

「けれど背教徒の極悪人、、、、、、、、それはキリスト教徒と呼ばれる者、、、、、、、、、、、、。」(p.150 傍点引用者)

とあり、キリスト教に対する、ユダヤ人の在り方が伺える。

 しかしこれは逆もまた然りで、それにどちらかといえば、ユダヤ人がキリスト教徒はじめ、その他の諸宗教諸民族に迫害されてきたという歴史的事実の方が多いだろう。

 

 本書『The Ghetto』によると、

「ヨーロッパにおけるユダヤ人のもっとも初期の歴史は、ユダヤ人とキリスト教徒との間に自然に芽ばえた個人的な自然な関係から、形式的・法的・抽象的な交際への漸進的推移を示している。この推移は、(中略)一般的な従来の交際がくずれ、皇帝や皇教の仲介を要するような危機が起こるとともに始まった。この変化の過程にあって、ユダヤ人は特殊な地位を獲得した。しかし、それは、ユダヤ人自身の自意識を強めたばかりでなく、近隣の人々の目には、三者〔よそ者〕テルティウム・キッドとして、ユダヤ人を際立たせることになったのである。」(p.31 参照)

 

 こうして人種として「よそ者」視されるようになったユダヤ人は、差別の歴史を歩み始める。

 すでに西暦三〇五年に、「キリスト教徒がユダヤ人と親しく交際することを禁じた、数件の法令を定めさせ」られている。そしてキリスト教は、ユダヤ人をキリスト教徒へ改宗させようともする。

教皇の大きな目的の一つは、いかなる手段を用いてもユダヤ人をキリスト教へ改宗させる事であった。[2]」(p. 76 参照)

 

 また、これまでユダヤ人が金融に深く関わることについていくつかの本で触れ、しかしそれは一体どういうことなのか?なぜユダヤ人が高利貸しや銀行家(例えばロートルシルト家[3] (Rothchild family)――はユダヤ人である)なのか、その理由がわからなかったのだが、本書によって、その謎が解けた。

 曰く、

「中世の教会の方針は、商売と金融を原罪と結びつていた。(中略)その禁制ゆえに、商人と銀行家の職業は好ましくないように思われていた。キリスト教の聖職者は、「ユダヤ人の魂の危機」について煩わされることはなかった。なぜなら、彼らが知る限りでは、ユダヤ人はどのみち呪われているのであり、救済すべき魂を持たなかったからである。」(p.38)また、「ゾルバルトは、(中略)ユダヤ人は、交際上手の天性(中略)によって、商人になることに適しているが、職人となるにはそれほど適していなかった(中略)。ユダヤ人は、広く散らばって交際を行なったし、数カ国語に精通していた。縁故者をもっていたし、若干の財産も所有していた。(中略)さらに、ユダヤ人は、金銭をとり扱う際に、他の人々のように宗教が妨げとなることがなかった。そこで、ユダヤ人は金貸しや銀行家となった、、、、、、、、、、、。」(p.162傍点引用者)

 

 このように他宗教、他民族から長い間差別視される「ユダヤ人」とは、一体どういう人々を指すのか。

 ユダヤ人とひと口に言っても、そこにはドイツ系、ロシア系、スファルディ系、ポルトガル系、アメリカ系のユダヤ人、アフリカのユダヤ人など様々な人種タイプが存在し、さらに住んでいる地域によってユダヤ教も分派したり(保守派や改革派、正統派などに分かれているという)、地位にも差があるようである。

 

「伝統的見解にしたがえば、ユダヤ人とはセム[4]に属し、何世紀にもわたる離散に身を委ねながら、その血の純潔を擁衛してきた人々ということになる。しかし(中略)ユダヤ人の身体的特徴が決して一様でなく、またセム族が元来一言語集団にすぎないことから、ユダヤ人の多くが他のセム語系諸族に見られるものと異なった、一つのタイプを持っている。」(p.82)

 という記述からも、「ユダヤ人」をある一つのタイプとして分類することができる、ことがわかる。

 けれども、それではユダヤ人とは、一体どんな人のことを指すのか?というと、

「いまだに、ユダヤ人が人種なのか民族なのか、あるいは宗教集団ないしは文化集団なのかに関して、基本的な縺れは解かれていないというありさまである。」(p.82)

 という。

 非ユダヤ人である側からすると、これはある意味納得という気がする。ハタから見てもこれだけ雑然混沌としているのだ、そうなるのも当然、という感じだろうか。

 ルイス・ワース氏は「人種としてのユダヤ人」(p.82〜91)の中で、ユダヤ人とは皮膚の色か、はたまた顔立ちなのか、振舞いなのか等々考察しているが、ユダヤ人がユダヤ人をユダヤ人たらしめるのは、

ユダヤ人をしるし付けるものは、肉体ではない。それは魂である。」(p.91)

 というのは、極めてユダヤ、、、、であるといえよう。

 

 ユダヤ人が、集団である地域――ゲットー――へ隔離されてきたことは、差別的な迫害によるものではあるが、ゲットーについて研究した本書では、これが生まれたのは、迫害による強制的な理由だけではない、と以下のように考察している。

ユダヤ人はあらゆる点からして一つの文化共同体ともいえるところにかなり大勢住居して」おり、「そこは、明らかにユダヤ人をとり囲むキリスト教文化やムスリーム文化から遊離していたのであった。(中略)ディアスポラ[5]の開始以来、(ユダヤ人は)移り変わる運命と休みない放浪を幾世紀にもわたって続けた(中略)移住の過程で、地球の人里離れたところに定住したが、ユダヤ人は集団生活を行なった」

 

 つまり、ゲットーとして隔離され、それが「物理的障害としてあらわれる以前」から、ユダヤ人は自発的に「人里離れたところ」に「集団生活を行な」う人々だったのである。

 アメリカへ移住してきたユダヤ人がゲットーへ住みつき、自分が住んでいる、シカゴの「ジェファーソン・ストリートが、ゲットーのほぼ中心にあたることを発見するまでに、二十年かかった」(p.292)という。ユダヤ人は自然とゲットーへ住みつくのだ。

アメリカに(中略)ゲットーがあるということは夢想だにしな」いユダヤ人でさえ、ごくごく自然にゲットーに吸い寄せられるということである。

 このように、自分が住んている場所がゲットーだとは夢にも思わなかったアメリカへの移住者は「ウェスト・サイドの何百もの、いや何千もの家族」(p.293)であるという。

 

 ユダヤ人にとって、信仰と生活は決して切り離せない。コーシェル肉を食べ、シャバットではシナゴーグで礼拝し、ありとあらゆる宗教的規約――律法トーラー――を守らなけれなならない。

 そのためには、コーシェルを売る肉屋があり、シナゴーグがあり、ラビのいる地域に住むことが最も理にかなっており、そうして集ったユダヤ人地区がゲットーとなるのである。ユダヤ人が知らずゲットーへ行き着くのも、当然の帰結と言えるだろう。

 

 しかし、差別やポグロム、重税などの迫害の中で、多くのユダヤ人がゲットーからの脱出を計る。

ユダヤ人がゲットーから出て外部世界において人間的性格を装うとき、ゲットーは没落する。しかしこの自由には制約があるから、(中略)ユダヤ人と非ユダヤ人の距離が生ずる。そこに、ゲットーへの後退がはじまる。」(p.336)

 ゲットーや「ユダヤ人共同体の統一を保持してきたものは、失意のユダヤ人が帰還したということだけではない。」とルイス・ワースは言う。

「かれらは、かつてゲットーの外へ道を求め、失意のあげく帰還した。そして民族主義と人種的自覚を主唱する者になった。しかし、単にそれだけではなく、多数者社会がユダヤ人共同体を一つの社会としてとり扱った事実もあるのである」(p.324)

 そして「明らかなことは、外部からの圧力が一集団の連帯をもたらす、、、、、、、、、、、、、、、、、、、。その程度には限界がないということである。」(p.328傍点引用者)

 

 こうして再び、ユダヤ人はユダヤ人としてユダヤ人の集団で生活する。それはユダヤ人としての孤立に他ならない、とルイス・ワースは言う。

ユダヤ人の孤立は、身体的なたちから起生したのではなく、あまりにも不明確な、そしてあまりにも不触知な性格から起生したことは、著しいほどのことである。それは、言語、習慣、情緒、伝統および社会形態の相違のために、相互コミュニケーションの欠落により起生した孤立のタイプであった。われわれが考察したように、ゲットーとは物理的事実であるというよりも、むしろ精神の状態なのである。ユダヤ人の孤立は、群集のまっただなかにいながらも孤独を感じている人の孤立のタイプに似ていたのである。」(p.345)

 

 ユダヤ人に関する悲劇の歴史や様々な差別や迫害については、宗教的対立という背景が大きいところは自ずと思い当たるところだが、問題点はそれだけではない。

 現在でもイスラエルパレスチナの問題は解決しておらず、ユダヤ人に対する人種差別も残っている。

 ユダヤ人に限らずだが、多くの人種的、宗教的諸問題を解決していくには、まず相手の文化、歴史、人種的・宗教的特性や自分の持つ文化との相違点を知ることなくして、なしえないのだということを強く感じるのである。

 

 自らもユダヤ人でありながら、ここまで客観的なゲットー論――ユダヤ人論を書き上げたルイス・ワース氏には心からリスペクを捧げ、またこのような難解極まる論文を――「本書はおびただしい引用文、ドイツ語やイディッシュ語ヘブライ語が相当箇所に用いられており、かなり難解」(p.389)と本人も「訳者あとがき」で述べている――見事に日本語に翻訳された訳者にも敬意を捧げたい。

 

The Ghetto, University of Chicago Press, 1928 by Louis Wirth

ユダヤ人と疎外社会―ゲットーの原型と系譜 (1971年)

ユダヤ人と疎外社会―ゲットーの原型と系譜 (1971年)

 

notes

[1] ユダヤ関連の本をまとめて読んでおり、前作は『ユダヤ人と有史以来』だった。

[2] Philipson, op. cit., PP.143-145(p. 359 原註21参照)

[3] ロスチャイルド家のこと。

[4] セム族 (Semitic People) Sémites。アラビア半島、半アフリカ、地中海東海岸地方で、セム語を用いる諸族の総称。具体的には、アッシリア人、アラム人、バビロニア人、フェニキア人、ヘブライ人、アラビア人など。ノアの長男セム(Sem)の子孫と伝えられている。(p.363)

[5] Diaspora。「祖国なき民」(p.350)

キッチン

思えば吉本ばななという人を、一躍有名にしたのはこの『キッチン』だった(はず)。

 吉本ばなな好きな友人に「実は今頃になって初めて吉本ばななを読んだ」という話をしたら、ばななと言えば『キッチン』だ、と言われてそんな事を思い出した。

 友人は年に何回だか、何年に一回かは必ずキッチンを読んでしまう、あれが一番好きだ、とも言っていた。

キッチン (福武文庫)

キッチン (福武文庫)

 

 

 非常にわかりやすく死のことが書かれている小説だったと思う。

 正確にいうと死について書かれている小説、という意味ではなく、小説の中で「死」が取り扱われいているということが、とてもわかりやすくはっきり書かれている、というところだろうか。

 その、小説からあからさまに読み取れる「死」が、キッチンという場所を中心にして描かれているのは、やはりキッチン=食べる=生、という、もう一つの対極を表しているからだろう。だから、この小説は厳密にいえば「生と死」の話なのだ、たぶん。

 キッチンは「満月」を続編として完結されているが、この二部があって初めて一つにまとまった話となるのだろう。

 前編「キッチン」では主に死を、後編「満月」では主に生を描き、表裏一体の「生と死」について書き上げられている。「満月」では食べる(=生)のシーンがとても多い。

 

 どうも展開が現実に基づいた非・現実的なものなので、個人的には入り込みにくく、つい冷静に読んでしまった。こんな親子(雄一とえり子)いないよなとか、こんな事起こらない(みかげがいきなりほとんど縁のない田辺家でお世話になるとか)とか。超現実的な事を現実的に見せるためにリアルに描かれているなら、もう少し入り込めたと思うのだけど……。(そういう系統の作家の影響を受けすぎているのかもしれない)

 

 ただ、すごくおいしいカツ丼を食べて、ああいう場面で衝動的にテイク・アウトのカツ丼を作ってもらって雄一のところへ持って行く、あの感じはよくわかる。

 そしてカツ丼を背負って雄一の部屋まで屋根をよじ登るシーンは、わりと好きだ。家の鍵を忘れてお風呂場の窓から中へ入ろうとして、家の裏手に回って窓をよじ登るのと同じだ。(たまにやる)

 

「ムーンライト・シャドウ」はもっと明確に「三途の川」の話だった。

 これは

「等。私はもうここにはいられない。刻々と足を進める、、、、、、、、(後略)。」(P.221 傍点引用者)

 という所へ到るまでの話だったと思うけれど、これは(こう言っていいのかわからないけれど)『ノルウェイの森』の

「おいキズキ、と僕は思った。お前をと違って、俺は生きると決めたし、(中略)俺は生きつづける、、、、、、ための代償を(後略)」(下巻 P.182-183 傍点引用者)

と同じだと思った。

 ただこのムーンライト・シャドウの方がずっと優しく、柔軟で前向きだ。それはとても女性的な感覚のように思う。そして読者もカタルシスを感じ、「手を振ってくれるありがとう。何度も、何度も手を振ってくれたこと、ありがとう」(P.222)できっと救われるのだ。

 

 この本を読んで、「生と死」について書くことがどういうことか、少しわかった気がした。

 ある一つの物語に描かれた生と死や、それにまつわる様々な事柄を、読み手は主人公などの登場人物を通じて体験し、物語の中での結末で消化(昇華)していくのだと思う。その中で、同じ体験ではなくても、自分の生活や生きている中で起こったり生まれたりすることが一緒になって――それは小説とまったく同じではなくても――消化(昇華)されるのだと。

 吉本ばななの小説というのは、それ(昇華の過程)がとてもわかりやすいのだと思う。そしてその分、スッキリ度も高いのではないだろうか。

15th Anniversary

読書百冊意自通ズ覚書も、本年でこうして公開から、15年を迎えました。

 

 そしてはてなブログに引っ越しいたしました。

 

 15周年なので引っ越ししよう、と思ったわけでは全然、全くなく、唐突に「よし、引っ越そう!」と思い、引っ越し作業をしているうちに、「あれ、もしかして今年って15周年なのでは?」と気づいた次第です。

 でも、急に引っ越ししようなんて思い立ったのも、「おーい、忘れてるっぽいけど、今年15周年だぞー」と、何かが気づかせてくれる、流れの一部だったのかもしれない、と今は思います。

 

 これを機に、書き散らかしていたものを少しだけ整理し、読書感想を主軸に、映画と漫画の感想もおまけ的に載せています。

 また、ツイッターも始めましたので、更新情報(今はほとんどないけど……)や、ちょっとだけ呟きたい感想などに利用できたらいいと考えています。(フォローお気軽にどうぞ。)

 

 今まで来てくださった方も、これから来てくださる方も、ありがとうございます。

 

 現在も更新は頻繁にできませんが、10周年の時から変わらず、この覚書をライフワークとして続けていきます。

 

 15年目の、決意表明でした。

 村上春樹特集は、そろそろ真面目に実現しないとね。

スカイフォールに関する覚書 ―― 過去との決別、新たな00へ [007 スカイフォール]

 アクションは派手さはなく重めだが迫力あり。

 テーマが暗い。画面もどんどん暗くなる。

 暗く、なにもないボンドの生地で、Mもろとも過去を葬り去る、というのが話の軸だったんだろう。ボンドカーも粉微塵。生家も跡形も残らないほど派手に爆発。

 ボンドの生地で、Mが過去に追われて死ぬ。それは時代の終わりを表している。

 そしてMは、今までの敵――犯罪が新たな形に取って代わったわけではなく、これから戦わなければならない敵について、最後に明確にして示唆している。

 

 ボンドガールの存在感意味がなさすぎだ。

 ダニエル・クレイグになって、ボンドの軽妙さというのはほぼ皆無になったよね。と同時に、ボンドガールの存在意義も、形式的を通り過ぎてお飾りにもならない程度になった印象。

 もはや、新しい00シリーズには、ちゃちに見える軽さも、それに付いてくるボンドガールも不要というわけだ。

 

 今回の敵は、目的も手段も理論破綻しているところはなかったし、手段がなかなか見せてくれたので、それはよかった。 ハビエル・バルデム、猟奇的な役似合うな……あれは上手いということだろうか。

 しかし、レクター博士的なキャラクター性が強すぎるのではないか。というか、レクター博士の登場が、「頭脳派の猟奇犯罪者」のキャラクターを決定付け過ぎているのだろう。この手のキャラクターがみんな似たり寄ったりになってしまうのは、なにもスカイフォールだけではなく、他のほとんどの作品において同じ現象なのだ。それだけ、レクター博士インパクトは強烈だったというわけですな。

 

 まーでも、ダニエル・クレイグ扮するボンドは、やっぱり軍人だったな~ もはや私のイメージのボンド(ショーン・コネリーだけど)ではない。でも時代はそれを求めていない……というより、製作陣が新しいボンドを生み出そうとしているという印象を受けた。そして当然、軍人ボンドが好きな人も多いだろう。

 個人的には、これならもはや00シリーズじゃなくてよくね~?という気もするけど。 Qの子がかわいくてよかったな。

10th Anniversary

本日、サイト開設10周年を迎えました。


十年一昔と言いますが、一昔も前(!)から始めたことになります。

 親しんだ読書の世界から離れてしまわないように、なにか始めよう、とスタートした覚書でした。
 覚書をしていくうちに、ほかの人はこの物語をどんなふうに読んでいるのだろう、ということが知りたくなりましたが、書評のサイトはあっても、純粋な「読書感想」のサイトはあまりありませんでした。
 それなら、まずは自分の「読書感想」を発信してみよう、と本サイト開設に至りました。
 時を経る中に、HPからブログへと形を変えましたが、こんなに長く続けられるとは、我ながら驚きです。

 今まで当ブログに足を運んでくださった方、ありがとうございます。
 たまたまたどり着いて覗いてくださった方も、ありがとうございます。

 更新も頻繁にはできませんが、継続は力なり、書評ではなく、率直な「読書感想文」としての覚書を、これからも一種のライフワークとして続けていきたいと思っております。

 10年目の決意表明でした。
 10周年記念で、村上春樹特集をしようと計画中デス。
 まずは近々更新するぞ~!
 K

ユダヤ人は有史以来 パレスチナ紛争の根源/上下

ユダヤ人について知りたいのでなにかありませんか、と恩師に尋ねたところ、薦められたのが本書と、ルイス・ワース著の "The Ghetto" であった。動機は忘れてしまったが、まとめて読んで知識を身につけようと思ったことは覚えている。

 そもそも学校教育の現場で、中東についてはほとんど教えないーーイスラエルには聖地エルサレムがあるとか、アラブ人は大半がイスラム教徒で、イスラム教とはアッラー唯一神とし、聖地はメッカにあり、巨大なモスクを建て、ラマダンと呼ばれる断食をすることなどくらいしかーーので、基礎知識というものが全くなかった。
 
 そんな中で、後から考えると「パレスチナ紛争とはどういうことか」微塵もわかっていない人間が、いきなりこの本を手に取るのはいささか無謀だったように思う。
 だから、読み始めはすでに既知の事実として語られて説明のない言葉、出来事、ほんの少ししか解説のない事柄の多さに、理解するのが大変難しかった。
 本書自体が専門的な内容(資料など)を多分に含んでおり、もともと難しいものであったはずなので、それに基礎知識のない人間が取り組むのだから、結果は言わずもがな、である。
 
 それでも、著者が何度も同じ主張を繰り返して書いてくれたおかげでーーそれは主張の信憑性を高めるために引用した資料が同じような内容だったせいもあるし、同じような内容の資料がたくさんあることが彼女の主張の裏づけになるからであるがーー徐々に書かれている内容や状況が理解 できるようになってきた。
 
 そんな状態なので、本当の意味でどれだけこの本を理解できたのか、実にアヤシイものである。しかしこの覚書の本旨に則って、できる限り率直な感想を書くことにする。
 
 最初の「1. ユダヤ人への誘いーーアラブからの帰国招請」は、冒頭部分に、著者が本書を書くに至るまでに経緯の発端と、アラブのプロパガンダの始まりを書きたかったのだろうと思われるが、後述することと時間軸が逆転しているので、なかなか理解に苦しんだ。(知識不足によるのだが)
 ユダヤ人の迫害の歴史が浮き彫りにされ、アウシュヴィッツに代表されるユダヤ人に起こった悲劇には心が痛んだ。しかしそれ以前に、もっとずっと悲惨で、陰惨で、残酷なポグロムと呼ばれる殺戮や略奪などが、長い間当たり前のように、そして寄せては返す波のように、何度も行われてきたという記述に、戦慄を覚えた。
 
 本書でピーターズ女史は、パレスチナが、いかに多くのイスラム教徒の不法入植者によって占拠されているか、あらゆる資料によって立証している。ユダヤ人が同胞を受け入れるために開拓した土地(パレスチナ)に、イギリス政府(委託統地)によって制限がなされ、多くのユダヤ人が入植できなかったことなども詳しく書かれてる。
 本書によれば、WWIIで西(ドイツなど)からボロ船に乗って命からがらで逃げてきた人々は、海の上で無情に追い返され、何百万という人がアウシュヴィッツへ送られた。その間、アラブ人たちは我が物顔で続々と不法にパレスチナに入植し続けていたという。
 
 そしてなぜイスラム教徒はユダヤ人(ユダヤ教徒)を平然と迫害するのか?その理由を、著者はコーランに見つけている。
 ピーターズ女史によると、預言者マホメットイスラム教を広め、ユダヤ教徒イスラム教に改宗させるため、ユダヤ教の慣習を取り入れた[1]が、ユダヤ教徒は改宗しなかった。マホメットはそのことを恨み、コーランには「ユダヤ人に対する敵意や非難」「ユダヤ人に対する激しい攻撃が多く書かれている」(P. 56)という。
 もしそれが事実なら、コーランを聖書としているイスラム教徒が、ユダヤ人は汚れた民族であるとか、ユダヤ人から略奪するのは当然と思うのも納得だろう。
 
 本書では、ユダヤ人に対する長年、そして多数に渡るポグロム、その実態やアラブのプロパガンダについて、歴史の中で揉み消されてしまった数々の小さな資料――著者によれば、、、、、、、それらは史実である――を積み上げて立証し、証明されている。これには、単に“パレスチナ人”と“イスラエル”の対立だけではない、このパレスチナ問題の抱える難しさを強く感じさせられた。
 
 パレスチナ問題は、非常に複雑かつ難解である。事実は一つだったとしても、立場が違えば受け取り方も変わる。
 ゆえに、ユダヤ人側に立ったピーターズ女史の主張が、全面的・絶対的に正しいとは言えないだろう。ここに記載されている事実が全てとは言い切れないし、世の中には様々な解釈や見解があるのだ。
 その証拠に、「パレスチナ人とユダヤ人はイスラエルが建国されるまでは仲良く暮らしていた」とか、「ユダヤ人が2000年も前に住んでいたと言ってイスラエルに戻って、パレスチナ人を追い出した(パレスチナ人難民)」という解釈も多く、本書に書かれていることとは驚くほど相違がある。
 
 何が正しくて何が間違っているのか。
 見極めるのも大切なことだと思うが、それ以上に、様々な意見を知り、柔軟な思考で問題の収束に向けていくことが、もっとも求められることではないか、と感じさせられた。
 
From Time Immemorial
The Origins the Arab-Jewish Conflict Over Palestine
by Joan Peters, 1984

 

notes
[1] 
エルサレムに向かって礼拝したり、ヨムキプール(贖罪日)の断食など」(上 P. 56)

ユダヤ人は有史以来―パレスチナ紛争の根源〈上〉

ユダヤ人は有史以来―パレスチナ紛争の根源〈上〉

 
ユダヤ人は有史以来―パレスチナ紛争の根源〈下〉

ユダヤ人は有史以来―パレスチナ紛争の根源〈下〉

 

半日の客 一夜の友

二人の対談が100回を超えていた(!!)ということが今回わかり、本当に驚いた。対談は何冊も読んでいるし、相当やっているだろうということは考えるまでもないけれど、100回を超えているというのはさすがに脅威の数字だろう。

 そして真に驚くべきは、回数もさることながら、この回数で保たれている内容のクオリティの高さである。要するに一言で言うと、「何者やあんたたちー!」つうことだ。うむ。

半日の客 一夜の友 (文春文庫)

半日の客 一夜の友 (文春文庫)

 

 

 今回も相変わらずスバらしく高尚な対談が、各テーマで繰り広げられている。すでに感心を通り越して呆れるほどのクオリティだが、その中でちょぴっと安心したこともあった。
 それは、本文中に丸谷が「対談のために何冊も資料を読んで準備する。一体何冊の本を読んだことか…」というようなことを言っている部分である。

 まずドーンとテーマがあって、パッと対談しているのだ、と長い間、漠然と想像していたのだ。それだけでこんな風に語れるなんて、この人たちの知識量は恐ろしいほどだ、マジで脳みそどーなっとんねん……と思っていた。
 そんな二人が 、実はテーマのためにちゃんと資料を読んで準備し、その結果としての対談のクオリティだったのだ!と知ってすごくホッとしたのである。
 やっぱり多少なりとも準備しているんだ、全ー部、最初から頭の中に入っていることだけじゃなかったんだァ…。ホッ。
 要するに、凡人の安堵にほかなりません。ハイ。ま、例え準備していたとしたって、その辺の人にできるような対談じゃないけれど。
 
 もう一つ印象的だったのは、二人が司馬遼太郎との対談の話題になった時、司馬遼太郎をTHE大家!として扱っていないこと。
 なぜそう思ったかというと、宮城谷昌光の『春秋の名君』[1]司馬遼太郎との思い出話が出てくるのだが、それが一度直接会って話したこと、ハガキをもらったことを生涯の宝としている、という話なのだ。宮城谷は司馬遼太郎のものすんごいファンのようで、それは読む限り、崇めていると言っても過言ではないレベルなのである。[2]
 ある一作家(宮城谷)にとってはこれほど神々しい存在である司馬遼太郎が、この丸谷山崎両名にとっては
「始めから安心して対談できる相手って二人しかいないんですよ。一人は丸谷さんで、もう一人は司馬遼太郎さん。」(p. 392)
という相手なのである。
 これは年齢の差ということもあるだろうけれど、やはり丸谷(&山崎正和)は、文学界では大御所ということなのだな[3]、としみじみ思わされた。
 
notes

[1] この本は春秋時代の名君の小伝と、作者のエッセイから成っている。

[2] 本人はそう言ったら不本意かもしれないが。

[3] 丸谷が本年(2012年)10月に帰らぬ人となり、その際、それが証明されていたように思う。