世界がわかる宗教社会学入門
「難しいことを易しく解説してくれる」橋爪先生に、『はじめての構造主義』[1]以来、まったくを以って大・感銘を受けていたので、この「宗教社会学入門」なんてまさに打ってつけ、という思いで手に取った。しかも「世界がわかる」おまけ付き。ちょうどユダヤ教関連の本も読んでいたところだったので、補完的な意味でもぴったりだった。(補完というほど知識はないのはいうまでもないが)
そして、「難しいことを易しく説明してくれる」のは今なお健在であった。例えばこれ、マックス・ウェバーについての簡単な説明。
「マックス・ウェーバー(Max Weber 一八六四―一九二〇)という偉い社会学者(どれくらい偉いかというと、カール・マルクスを除けば、後にも先にも彼より偉い社会学者はいない、というくらい偉いのです)」(後略、傍点引用者 p. 15)
なるほど!と思わずにはいられない。ただ一人に焦点を当ててその人物をどうこう評しているのではなく、
⑴社会学者としての位置付け
⑵他の社会学者の中での位置付け
という二つの点から分析した、素人にもわかりやすい解説である。この短い説明でマックス・ウェーバーの社会学(者)における重要性にピンとくるわけで、いやすごい。
以後この具合で続いていく。これこそ本当の「入門書」といえるのではないだろうか。入門書であれば HOW TO が書かれていれば及第点かもしれないけれど、よく考えたら
入門書=読む人は素人=わかりやすいか否かが最重要ポイント
なわけで、いくらHOW TOについて書かれていても、難しくて(または専門的すぎて)理解に欠けたら、それは「入門書」としての役割を本当の意味で果たしているとはいえないのだ。ふむ。
しかし、イスラム教について、合理的かつ体系的で、完全であるかのように見えるのにスタンダードにならなかったのは「もっとも優れた規格がいちばん普及するとは限らない」(p. 22) という現象が世の中にはあるから……と先生は言っているが、個人的にはそういう視点では捕らえられない、と感じた。
イスラム教はユダヤ教・キリスト教に続いて生まれた宗教で、ユダヤ教とキリスト教の、いいとこどりで作られた教えなので、完成度が非常に高いというから、「完全性」については確かに橋爪先生の説の通り、もっとも優れているのだろう。しかしスタンダードにならなかったのは、要はするに一言でいうと過激というか、極端だったからではないだろうか。よく聞く「原理主義」の情報が素人的に入っている、あくまで素人的感想だが。
本書は非常に優れた解説によって書かれており、入門書としてわかりやすく素晴らしいものである。
しかし、難をいえば「宗教」という精神的な事柄を扱うには、あまりにも達観的すぎるのではないかと思う。
「宗教」を信じていない人、一種学問的に扱っている人の視点で描いているので、「流れ」や「歴史」はわかっても、本当はどんな教義なのかは上滑りしていて、いまいち核心を突いてこないのだ。読んでいると、それぞれの宗教からものすごく、引いているクールな橋爪先生の姿が――自分はあくまで無宗教であり続けるという――とても強く感じられる。[2] だから、厳しい言い方をするなら、単に事実を並べているだけ、と評することもできるだろう。
それは日本人的と言えるのかもしれないし、学問として宗教を教える立場としては、理想的な姿と言えるのかもしれない。
けれど、それでは宗教というものを理解することはできないのではないか。
日本人のほとんどは「宗教」と聞くとうさん臭く感じて引きがちだけれど、世界中で「無宗教」な人々がこんなに多いのは、おそらく日本くらいのものだ。それでも、日本人は気づいていないかもしれないけれど、確かに宗教的なもの――主に仏教的なもの――はその根底に根付いていて、真の「無宗教」などは存在しないのではないか。
なにかを信仰する必要はないと思うけれど、引きすぎて見えないものがあるのではないか。そんな感想も抱いた。
追記:「サグラダ・ファミリア」って「聖家族」という意味だと初めて知った。なるほど、「セント・ファミリー」なわけか。
notes
[1] 橋爪先生との出会いは『広告批評』。この人なんかすごいーっと思い、『はじめての構造主義』を購入し、再びそのスバラシさを認識した次第。
[2] ムハンマドがアッラー(神)のメッセージを聞いたことをアッサリ「今日の言い方では、彼は癲癇だったと思われます。」(p. 104) という、このクールなコメントからも窺い知れよう。