読書百冊意自通ズ覚書

読んだあと、何かしらの余韻を残していく物語たちを、みんなどんな風に読んでいるのだろう?The note of reading one hundred books makes you understand more clearly.

子どもの宇宙

「子ども」とタイトルにもあるように、子どもについて書かれている本なので、子どもための児童文学書の引用がすごく多く、自分が全然読んでいないことにびっくりした。

 タイトルだけは知っているものから、児童文学の世界では有名らしいけれど全く知らない本まで、取り上げられているのは実に様々だ。私が読んでいたのは『ノンちゃん雲に乗る』くらいではなかろうか。ううう…。

子どもの宇宙 (岩波新書)

子どもの宇宙 (岩波新書)

 

 あちらの世界とこちらの世界ということが、当たり前に書かれている。基本的に「あちらの世界」というものに抵抗はないタイプなので、全くすんなり受け止めてた。

 そして改めて「あちらの世界」を提示されると、ある種の小説に惹かれる時、その小説や物語が持つ共通点があるとすれば、それはみんな「あちらの世界」を持っている物語、描かれている物語なのではないか、と思った。[1] 村上春樹安部公房ジョン・アーヴィング、ガルシア=マルケス……「ある種」の物語。

 読んでいて、卒論(村上春樹論)に取り組んでいる頃に読んでいれば、と思うところも多かった。
 殊に、P.113 の通路ということについて、『トムは真夜中の庭で』[2]に出てくる裏庭ドアは、ふしぎな世界につながる通路だと書かれているけれど、これってもろ『ねじまき鳥クロニクル』の井戸じゃないかと思ったり、「3. トリックスター」(P.148)では、羊男=トリックスターだよなと思ったり。


 しかし、まあ文学的見地を離れてみたとしても、もし親になったらこういう本を通してまた勉強するのも、大切だと感じさせられた。
 子どもを理解する努力をしないとね。
 子どもはわりにすぐカンタンに「あちらの世界」に行ってしまうこともよくわかったしね。

 

notes
[1] 
ガルシア=マルケス『十二の遍歴の物語』のところで好きなタイプの作家だと言っているけれど、この辺のことだろう、この「タイプ」ってのは。
[2] ここで『ねじまき鳥クロニクル』の真夜中の庭で、デコボコ男二人組が穴を掘っているのを思い出している。「真夜中の出来事」だったか。

坊っちゃん

映画やTVなどでずいぶん映像化されているので、どうもそのイメージが強かったよう。そのどれひとつとして見たことはないのだけれど、断片的な映像を見て誤った情報としてインプットされていた。(それはインプットする時、自分で間違えていただけ)


 だって山嵐ってワルモノだと思ってたし、マドンナって坊ちゃんが赴任した先の学校にいるみんなの憧れの美人先生だと思っていたし、生徒と紆余曲折しながらさながら金八先生のように(時代は逆ですが)信頼関係作っちゃうような話だと思ってたもんなー。
 全然違いますね。(沈黙)

 解説の平岡敏夫さんが言っているせいかもしれないが、坊ちゃんは哀切感をにじませて、涙なくしては読めない(P.171参)と思う。何だかずいぶん、切ない。特に清のことが出てくると、それはもう、切ない。何だかずいぶん、想像と違う。
 親に愛されなかった坊ちゃんが、愛しんでくれる清を大切にし、結局東京へ帰ったり、そのあと月給が安い職につき、しばらくして清は逝き……坊ちゃんの性格が真っすぐであればあるほど、赤シャツの狡猾さや生徒たちの心ない行動に悲しくなってしまう。
 いつの時代も正直すぎる人、真っすぐな人には、世の中というものはどうも生きにくい。

坊っちゃん (岩波文庫)

坊っちゃん (岩波文庫)

 

レキシントンの幽霊

本格的な村上春樹の小説(短編集だけど)の覚書は初めてじゃないだろうか?まあそれだけ『ねじまき鳥クロニクル』の後のスプートニクなどが耐えられなかった[1]ということだろう。

 この本を読む気になったのは、村上作品を読まなくなってしまう前の短編集だったから、というのがある。あのひどい内容[2]を読まされることはないだろうと思ったのだ。

レキシントンの幽霊 (文春文庫)

レキシントンの幽霊 (文春文庫)

 

 こうして久しぶりに村上作品を読んでみると、自分でも意外なことに、作品の荒削りさが目についた。荒削りというか、もっとはっきり言ってしまうと技量不足が見えるのだ。文章が助長すぎたり、展開が平凡すぎたりする。

 話は不思議ワールド方向へ行っているので、その点はもちろん平凡ではないのだけれど、そのことではなく、要するに村上らしい展開すぎて何の新しさも面白みもないということ。

 

 そんな風に感じたことに、我ながら驚いた。なぜなら(説明するまでもないが)、自分は今まで村上フリークとでも呼べそうなくらい彼の文章を信奉していて、欠点を見つけることなどできなかったからだ。

 だから意外と村上も駄作(とまでは言い過ぎか)を書いているんだな、なんて思った。

 もちろんそれは当たり前のことで、どんな作家も傑作ばかり書いているわけではない。フィッツジェラルドだってそうだし、無数の凡作があるから一つの傑作が生まれると言えるだろう。

 こんな風にある意味冷静に見られるのも、歳月を経るの間に他の作家の様々な文章に触れたおかげなのだろうと思う。

 

 作品を紐解いてみると――

 

 特に助長だなと感じさせられたのが、「レキシントンの幽霊」。描写がうまいと言いたいところだけど、余計な部分が多かったように思う。

 

 それから最初より長くなったという「トニー滝谷」も。短い方を読んでいないけれど、そのままの方がよかったんじゃないだろうか?

 

 それまでの村上らしさが一番出ていた気がするのは「めくらやなぎと、眠る女」。これは『ノルウェイの森』に吸収されてしまっているので、ノルウェイの森を読んでしまうと、ダシ、、に使われて味のなくなった出がらしの鶏肉のみたいに感じてしまう。ノルウェイの森を読んでいなければそれなりに読める作品だと思うけれど。

 

 この短編集で一番よかったと思うのは「七番目の男」だ。

 嵐の描写がやはり助長に感じるけど――それは実際に「長い」というだけではなく、退屈に感じさせるということ――「波がさらってしまった大事なものと取り返しのつかない年月」というのが、単なる比喩でないことが明らかになっていく中に物語に引きつけられるものがある。

 ところでこの「波」というのは一体何なのだろうか。『ねじまき鳥クロニクル』の後で書かれた作品らしいから、そこで描ききれなかった綿谷ノボルに代表される何か、、の片鱗なのだろうか?

 そんなことを考えさせる余地があることからも、この作品がこの中ではできがいいといえる気がする。

 

 次はそろそろ主人公が谷崎訳の源氏を読んでいるという『海辺のカフカ』を開いてみようか。

レキシントンの幽霊

レキシントンの幽霊 7

緑色の獣 41

沈黙 53

氷男 95

トニー滝谷  121

七番目の男 161

めくらやなぎと、眠る女 197

 

notes

[1] 『スプートニクの恋人』を読んでガックリきてしまって、その後の村上作品を読んでいない。こうしてみると、よほどガックリきたんだな、当時。ここまでストリクトに評価してしまっていると、今読んでもそう思うのか、検証したほうがいいのかもしれないという気がしてくる。

[2] これはスプートニクのことを言っている。本当にひどい評価だ。

ハリー・ポッターと謎のプリンス

 初めてハリーポッターを映画館で見た

 公式site: ハリーポッターと謎のプリンス

 

 場所は新宿バルト9のシアター8。映画はあまり見ないので、フィルムがいいのか映画館がいいのかわからないけれど、画面がというより音がよかったような気がする。

 

 内容はというと… 自分的にはかなり楽しめて、180分も苦ではなかったけど、誰もが同じように楽しめるかというとちょっと?かもしれない。

 シリーズものの上、クライマックスへ向かっている段階なので当然だろうけれども、次につながる作りなわけです。したがって、全体的に終始暗いし、謎が謎のままだったりして、個として作品を評価するのは難しい。シリーズの中でどうだったか、というなら言えるかもしれない。でもそれには原作を読んでいないので、やはり言及はできないな。

 

 前も書いたけれど、原作から省かれているところがあると思う。説明不足が多いのだ。

 今回なんて、えっ、いつの間にハリーはジニーを好きになってたわけ!?って感じだった。原作ではちゃんと描かれているのだろうか?ハリーポッターを見るといつも原作を読もうかなと思わされる。

 

 とはいえ、全体的にはよかったのではないかと思う。自分は特にハリーポッターファンじゃないけれど、早く続きが見たいと思ったし、それって成功と言えるんじゃないだろうか?

ハリー・ポッターと謎のプリンス (2枚組) [Blu-ray]

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のだめカンタービレ #22

 むきゃー!!

 新刊が出ている!買わなくてはっっっ
 
 というわけで買って来た22巻。
 千秋と自分がやりたかった演奏を、想像以上の形でRuiに実現されてしまって虚無感に襲われるのだめ。そこへ
「のだめちゃんがやりたかったこと、一度はやってみたいでショ」
 というシュトレーゼマンの悪魔の囁きに耳を貸し、その手を取ったのだめは――
のだめカンタービレ(22) (KC KISS)

のだめカンタービレ(22) (KC KISS)

 
 という21巻の続きである。 個人的に、21巻の 
「わかってマス。自分は自分でもっと頑張ればいいって……わかってるんです」
というのだめの苦悩がすごく共感できて、「こうなった場合、のだめは(作者は)どうやってここから脱出もしくはこの状況を展開(=理解)させるのか!?」
 ってことがすごく気になっていた。その回答は、この22巻ではまだ出ていない。
 
 その前にやってきた、のだめデビュー公演。
 ドラゴンボールで悟空がめっちゃ強いのが面白いように、のだめカンタービレでも、のだめが圧倒的才能で世間を席巻するのが面白いわけです。
 で、その読者の要求に、余すことなく応えたのだめデビューシーンだった。
 ここ嬉々として読んだ人、多かったと思う。自分も楽しかったし、嬉しかった。
 しかし、「やってみたかったこと」を違う人と実現しても、のだめの問題は解決していないのだった……
 
 抜け殻となったのだめは、センチメンタルジャーニー☆エジプトへ。(しかしなんでエジプト…)
 ここで彼女が何かを掴むのかはまだ見えない。でも、「もういいでしょ」なんて言ってるので、まだちょっとダメなんだろう。 
 
 しかし、オクレール先生が何を考えているのかよくわからなかったんだけど、やっと今回わかってそれが一番スッキリした。
 そしてそれは千秋の「言いたくない」不安と同じことだった。
 オクレール先生が言っていることはきっと正しいけれど、のだめには難しいことだろう。確かに今のままでは。
 何を失っても――千秋を失っても――音楽と共に生きるのが真の音楽家であり、それこそが本当のピアニストになる条件だとオクレール先生は言ってるわけで、のだめはここで、はからずも最後通牒を突きつけられるのだ。そうしてみれば、シュトレーゼマンの囁きは確かに悪魔の囁きだったと申せましょう。
 のだめにそういう覚悟を迫るのは、作者がクリエイターだからだなあと感じさせる展開だ。
 
 次回のだめはどうするのか? そんでもって、真一君も「真の音楽家」の犠牲になってきたわけで、そこに何があるのか、突き進む前に知っていくべきだと思う。 丁度父もやって来たことだし。
 つくづく、展開が上手な漫画家さんだ。
 
 というわけで、続きはエジプトからお送りいたします… ところで、のだめはあんなに学校休んで、クビにならないのだろうか?

ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック

とても読み易い小説以外は、小説より そうでないもの、、、、、、、の方がずっと読み易い、と最近思う。

 長い間ほとんど小説を中心に読んできたので、そういうことに気づかなかった。もっとも、それは単に自分の想像力がひんこん、、、、だからというのにすぎないかもしれない。
 しかし、それでも小説というのは、描かれている世界をイメージするだけですごくエネルギーを使うので――前述した「とても読み易い」例外的な小説とは、このイメージがおどろくくらいすんなりできる。とても数少ない(その理由はわからない[1])――なかなか読むのに骨が折れる。
ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック (中公文庫)

ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック (中公文庫)

 
 そういう観点から見てみると、この『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』は第一部、第二部、共にスコットとゼルダについて書かれた伝記みたいなもので、読み易く興味深かった。
 そして作家というのは――いろんなタイプが、もちろんいるんだろうけれど――古今東西、め ちゃくちゃな人が多いなという気がしてしまう。
 
 このゼルダフィッツジェラルドの絶望感というのはなかなか苦しいものがあった。
 そしてほんのわずかだけれど、ゼルダの持つ、彼女自身をも破壊してゆくヴァイタリティーというもののもたらす姿を、村上春樹は「 直子[2]」に書きあらわしてみたのかもしれない、と感じた。もちろんゼルダ=直子という事はないけれども。
 しかし、なんとも不幸な二人の青年たち――そして一組の夫婦、である。
 たぶん、生きた時代が良くて、悪かったんだろう。
 

<翻訳された2編の小説についての記述>

その1『自立する娘』On Your Own

 冒頭の「ノート」の部分ですでに訳者が指摘している通り、この作品は「結末の弱さ」と「人物の掘りさげ不足」が欠点である。加えて「後半の三分の一を非 ハッピーエンド小説として書きなおせば、これはかなり出来の良い短編小説になっていただろう」という見解に賛同する。

 とにかく、今挙げた指摘で、この物語は言いつくされてしまっている。

 

 でも、確かにフィッツジェラルドは「ひどい短編」を書いたかもしれないけれど、「ひどく書くことはできなかった (He could not write badly)。」ということはよくわかる作品かもしれない。そう、「何はともあれ読ませる」し、「文章は華麗」だ。

 こうしていざこの村上春樹訳の“On Your Own”について書こうとしてみて、改めて前置き「『自立する娘』のためのノート」に必要な事は全部書きとめられているのだ、という事に気づく。ここまで、ほとんどこの「ノート」からの引用になっていることからもわかる。

 これだけフィッツジェラルドと向きあっている人が書いたものについて、自分に何か言うべき言葉なんてあるのだろうか?そうだ、ないのだ、『華麗なるギャツビー』さえもろくに理解できないのだから!
 
 しかし、一つだけ加えるならば、この“On Your Own”という小説について、これだけ短いページ数の中でこんなにも適格に述べられるという事に感嘆してしまう、という事だろうか。
 フィッツジェラルドについては数多くの、いろんな国の人が研究しているだろうし、また彼のことを愛しているだろうけれども、その中の一人に村上春樹という日本の作家がいた事は幸せな事だと思う。
 もっとも、フィッツジェラルド自身はそんな事は知りようもないし、喜びようもないのだけれど。
その2『リッチ・ボーイ(金持ちの青年)』The Rich Boy

 正直言って、「ノート」の部分にフィッツジェラルドの短編ベスト3(か「控えめに言ってベスト5」)を選ぶとき、「まず落とせない作品」であると書かれていても、それほど期待してはいなかった。というより、この文章がろくに目に入っていなかったのかもしれない。

 ともかく、そんな風にほめたたえられている 作品だ、とはまるで思わずに読み始めた。

 前載の『自立する娘』がいわゆる「一級品の短編に比べるといくぶん格が落ちる」作品だったせいかもしれない。

 

 読み始めて、次第に物語に引きずり込まれ、気がついた時にはすっかり魅せられてしまっていた。読んでいるあいだ中、自分がとてつもなくこの物語に惹かれていることを自覚せずにはいられなかった。

 こんなに惹きつけられるのは、やはり「あまりにもリアリスティックにすぎる」せいだろう。サタデイ・イヴニング・ポスト誌はそれを理由にこの作品の掲載を断ったというけれど、それこそまさにこの作品を生きづかせている(息づかせている)最大特質であるのではないか、と思う。

 この 息の詰まりそうな[3]リアリティーが作品を作品たらしめているのだ。

 

 話は少し変わるけれど、この二編の作品はすごく読み易かった。とても数少ない例外的に読み易い小説に分類される。

 それは、訳者である村上春樹自身が、自分にとって「例外的に読み易い小説」を書く作家だという事もあるし、フィッツジェラルド自身が「例外的に読み易い小説を書く作家だ」という事もある。

 どっちがどれだけどうなのか、という事は正直よくわからない。ただこう書いて言える事は、「例外的に読み易い」という意味で、この二人の作家は自分にとって非常によく似ているという事だ。

 村上春樹フィッツジェラルドをリスペクトしているから、というのをその理由に挙げる事もできると思うけど、それってものす ごくつまらない、、、、、解釈の仕方だと思う。さびついている。

 

 本文について。

 

 この物語に文字通り「引きずり込まれた」事はうまく説明できないし、そういう事をうまく説明できないからこの物語があるんだと思う。一番いいのはこの小説を読んでみる事だ。もちろん、同じような感想を抱くとは限らない。

 故に特に言うべき事はないのだけれど、この小説の持つ「リアリティ」についてだけ少し。

 

 最もリアルに感じた、共感してしまったのは、アンソンがイェール大学の同級生――もちろんそれ以外のアンソンを必要としている人全て――の面倒を、長い間見てきて、

「今では」その人々が「彼らの経済的な悩みも昔話となり、(中略)彼らは旧友アンソンをいつも喜んで迎えたが、会う時はいつも上 等な服を着て今ではちょっとしたものなんだというところを見せようとしたし、悩みごとがあったとしても彼には打ち明けなかった。彼らはもうアンソンを必要としないのだ。」(p.295)

 という部分である。

 

 この部分にリアリティを感じるのは、この場面が中でも特にリアリスティックに描かれている、というわけではなく(もちろんたいへんリアリティに溢れているところだけれども)、自分が、、、そう感じる、という事だ。

 つまり、一般的に見て作品中最もリアルなシーンだというわけではない。このシーンにリアルさを感じる人は多いかもしれないけれど。

 自分がここにリアリティを見い出すのは、そういうタイプの人間だからで、それは性格とか経験とか生活環境に寄する所が大きい。自分にとって何がリアル、、、、、かはその人のリアル、、、──生活によって異なるのである。

 そしてこのシーンは自分にとって、おそろしいくらいにリアルだ。

 

 例外的に読み易い小説のほとんどがそうであるように、アンソンもその人となりがとても想像しやすかった。「アンソン」のカラー、というものはとてもつかみ易く、生き生きと感じられた。

 

 “The Rich Boy”──リアリスティックで、おそろしいほど文章が(本当に)精緻で、「えも言われぬ」小説だった。

 少なくとも、この先の長い間、この短編は私に心の中にとどまり続けるだろう。

 
notes
[1] 自分のイメージのせいか、作者の力量のせいか、3つ目の理由のせいか
[2] ノルウェイの森』の直子。
[3] 訳者自身も「息詰まるばかりの」と表している。

ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団

 ハリーポッターの新作、謎のプリンスを見に行こう!ということになったのだけれど、前作“不死鳥の騎士団”を見ていなかったので見てみた。

 

 途中(前作など)は、なんだかあんまり面白くないなあと思っていたのだけど、今回は面白かった。特に何がよかったというよりは、今やっている新作のCMを見て、それが面白そうな気がするから、前作も興味深く見られた、というだけのような気もする。でも全体的にまとまりがよかった気がする。

 

 シリウスのところが泣けた、と友達は言っていたけれど、どっちかというと孤独を感じているハリーにも仲間がいるよ、と示される場面が多々あって、そこでいちいち涙ぐんでしまった。……孤独なのだろうか。

 

 学校対決とか、大袈裟なわりに中味がない感じだったけど、今回は一つ一つ最終章に向けてうまくまとめて描かれている。

 

 一つ不可解だなぁと思ったのは、魔法省から来た小役人のアンブリッジ。

 ストーリーを追って行くと、魔法省のトップのオヤジ・ファッジが、名前を言ってはいけないあの人……の復活を信じたくないから、復活を明言するダンブルドア以下ホグワーツを問題視していて、監視と牽制のため(?)アンブリッジを派遣してきた……ということだと思うのだけど(あってる?)、疑問なのは、彼女が学内を取り締まるのも、権威的かつ前時代的なのもわかるけど、 なんであそこまでやるの? ということ。彼女の動機が今一つわからない。

 それくらい彼女はやり過ぎていたと思うし、むしろボルデモートの手先だったと言われる方があの行動には納得できる。

 だってあそこまでやるか?フツー。なんか原動力がいまいち見えなかった。

 でも、自分にピンとこないだけで普通にありなのだろか?それとも原作にはその辺も色々描かれているのか。原作を読んでいないので、その辺のところがやはりわからない。

 

 そんな中でいいとこ取りだったのは双子。 双子サイコー!

 でもどー見ても出て来た瞬間、 吉井和哉!?」

 や、ソックリだよね?あれまんまロビンだよね!?

 

 まあ何はともあれ、新作が楽しみ。今回初めてハリーポッターを劇場で見る予定。 近々行って来ます

ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団 [Blu-ray]

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イデアマスター―GLASS HEART

大まかにカテゴライズして、このグラスハートというシリーズは、「若木未生の中では一番好きな作品」で、とりあえず「出たら読む」に属している。藤本ひとみでいうところのKZ[1]です。この作家のメイン作じゃないんだけど、自分的にはヘタなメインよりこっちの方がデキもいいし面白いじゃん、という。

イデアマスター―GLASS HEART (バーズノベルス)

イデアマスター―GLASS HEART (バーズノベルス)

 

 

 それが証拠(?)にあとがきに

「(グラスハートは)ファンタジーにくらべて、ぶっちゃけ売れない。人気のあるファンタジー作品の半分とか三分の一の部数しか出ないので、グラスハートを書く暇があればファンタジーを書けという声も当然あったのですが」(p.252)
とある。
 私なんかからすると、ファンタジー(主にオーラバスター[2]を指していると思われる)よりこっちのが断然面白かった。まあ「当時(中略)ファンタジーものが流行していて」という、時代の流れみたいなものもあったと思うけど。それに、書いていたレーベル(コバルト文庫)のターゲットが、こういう話よりファンタジーが好きな世代だったとか、そういうことも。
 そういう時代背景があったのはあったとして、しかしそれを抜きにしても色んな意味で、ファンタジーよりグラスハートの方が出来がよかったと思うよ、当時も今も。

 という理由と、それから一番最初のイラスト、橋本みつるの絵!!もうこれが圧倒的によかった。
 若木未生の文章とか台詞とか展開の癖を見事に打ち消してくれる、強烈な個性のイラストだった。作者独特の表現はなくなったわけではないものの、橋本みつるの絵で読むと全然気にならなかった。[3]
 もしグラスハートのイラストが橋本みつるじゃなければ、私は最後までこの作品を読むこともなく、こうして感想を書くこともなかったかもしれない。

 というわけで、新イラスト担当の藤田貴美氏には悪いけど、今回も私の脳内では、橋本みつるの西条朱音と高岡尚と坂本君と藤谷直季とテン・ブランクでお送りされました。

 あとがきによると、今後BIRZ NOVELSからそれまでの巻も改めて随時刊行されるらしいんだけど、んでもって恐らく藤田貴美のイラストで出るんだろうけど、個人的に橋本みつるがいいよ!と思う。はっきりいって、橋本みつるじゃないグラスハートなんて
 間違ってるから。完全に。
 とか言い切りたくなる。
 あの1巻の表紙[4]のフジタニナオキ。
 あれがグラスハートでしょ。
 
 前回までに、音楽至上主義やってんのに恋愛持ち込むな、スポ根にLOVEはいらんのじゃ、というような感想を持っていた。そんな記憶しかないまま、この『イデアマスター』を開いた。 
 しかし結局、音楽至上主義から恋愛という横道に反れたのではなく、音楽至上主義というテーゼの中で、西条が、他のみんなが、取り違えたり間違えたりしてる、そこからどう本道に持っていくか、ということを書こうとしてたんだな、と最後の方でわかりました。(作者の意図が本当にそうなのかは知らんが……) 
 そして藤谷先生は音楽のメタファーとしての存在でしか、、ないんだね、この場合。
 だから西条は、音楽に焦がれている同じ地上の人間の坂本君と結婚する、とかいうのかもしれない。
 
 でもですね、この本を読んでいて、やっぱりよくわかんねえなあ、ってところが度々ありました。
 それは若木未生独特の理論で展開している部分なんだと思うけど、加えて私がおバカなんだと思うけど、何がどうしてそうなるの?というところがあって、途中で理解を放棄しました。……大人になった証拠です。
 
 要するになんで坂本君があそこで西条にプロポーズすんのかわかんない(皆わかってんのかな?ちょっと不安)。真崎桐哉とかわかりやすいのにな。あ、ちなみにオーバークロームのフルネーム空で言える[5]よ!
 
 結局、最後の最後で先生が西条のことを
「ドラム素人だったくせに、いきなりテン・ブランクなんて大変な場所で叩いた人だよ、天才すぎる、、、、、よ」(p.239 傍点引用者)
 と言っていて、あーそれ先生に言わせちゃうのか、そこへ持っていくのか、と思いました。
 たぶん先生が西条を天才と言うのは最初で最後だと思う。もちろん1巻から先生を始め、音楽的最高潮ハイレベルな人々に囲まれて西条がTBやって、そりゃあ西条にも非凡な才能があるんでしょう、とそういうところは確かにあったけど、それくらいにしか書かれておらず、ダイレクトには言われていなかった。
 西条が周りを「天才!神!!」と言いまくってて、その中にいるアナタも相当よ?っていう位だったと思うのですが。まあ最後だしね、主人公だしね、いってみればNARUTOだしね、黒崎一護だしね……
 なにか凄く全体的にけなし気味のことを言っている気がしてきたけど……
 
 活動休止中に、ドラマーなのに西条がソロアルバム出す、という展開は、TBというバンドをうまく生かして変遷させていると思った。違和感なく順当に読めた。
 
 文章が上手いとか下手とかはともかく(あっ!)、書き方は疾走感があるし、人間関係と世界観も上手く描かれていて(時々理解不能だけど)、面白いです。
 
 あと、これはグラスハートが好きな人は、だいたい皆同じなんじゃないかと思うんだけど、西条が上の人に媚びないところがいいと思う。だから読めるんだな。西条の敬語っぽいしゃべりも、緩衝材になってると思います。
 実際にバンドやってる人がどう思うのか皆目わからないけれど、音楽っていいよな、バンドとか仲間っていいよなって口に出さなくても読んでて感じるんじゃないだろうか。文字にすると一気に脱力しちゃうけど。
 
 だから最後に、TBが活動再開する野外フェスのステージで、何でもないように藤谷先生が西条朱音の『海と黄金』を歌うシーンを読み終えて、ほっとしたような寂しいような嬉しいような、長編とかシリーズ小説を読み終えた時に感じる、特別な想いが湧き上がってくるんだと思う。
 
 テン・ブランク(彼ら)はもう描かれずとも、この先も前に前進していくのだろう、と思う時、これぞ小説の醍醐味だと感じるし、結果的に読者にそう思わせることが、この作品の評価そのものだといえるんじゃないだろうか。
 
 リアルさとか、視野とか、とりあず瑣末なことは全部無視して、音楽(バンド)を小説で、、、描くことができた作品だと、私は思います。 んでもって、これから読む人には是非!!橋本みつるのイラストで読んでほしいです、強く!
 
notes
[1] 一昔前のコバルト文庫の代表作家。メインは漫画家マリナシリーズと銀ばらこと銀の薔薇騎士団なんだけど、KZっていう異色な感じの話が一番よかったように思う。マリナ全巻持ってますけどね。
[2] ハイスクール・オーラバスターというファンタジーがこの作家の代表作のはず。
[3] 私だけかなぁ?
[4] これ↓ですね。
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グラスハート (コバルト文庫)

グラスハート (コバルト文庫)

 

[5] 何の意味が?オーバークロームけっこう好きです。オーバーナイト・サイバナイテッド・クローマティック・ブレイドフォース、だよね。(確か)

“神がかり”的な ― THE DARK KNIGHT

 凱旋上映と銘打たれたダークナイトの再上映に行って来た。

 よく考えたら、一人で映画を観に行ったのは初めてだ。映画がそれほど好きじゃないのだから、当然と言えば当然か。

 

 衝撃的な死を遂げたヒース・レジャーの遺作となったダークナイト

 ちょっと期待し過ぎたかもしれない、というのが端的な感想で、期待というのに語弊があるなら、先入観なしに見られなかったというところだ。

 バットマンが自分のレーゾン・デートルに疑問を抱く中に、揺さぶりをかける如くに現れるトリックスター“ジョーカー”。そして、決して表舞台に立てない闇の存在である己の愛する女性レイチェルは、対象的な“光の騎士”であるゴッサム・シティのやり手検事、ハービー・デントと付き合っている。

 正義の面でも愛の面でも、闇は光にその場を譲るべきなのでは、と苦悩するバットマンを嘲笑うかのように、ジョーカーは次から次へと事件を起こして事態を引っかき回し、バットマンにマスクを捨てろと要求する。

 果たしてバットマンの決断は? 闇は光に消えるのか?

 

 というストーリーなんだけれど、とにかく脚本がよくない、と思う。

 初めてバットマンを見たので、まったく予備知識がないし、実際これは続編にあたるらしいので、背景は種々あるのかもしれないけれど、そういったことは無視!で言うと、そもそもテーマがはっきり一つに絞り切れていないのだ。

 闇VS光、正義VS悪、公VS私、多数VS少数……

 対極にある二つの対立という構図はわかるけど、お陰でどれもこれも非常に中途半端にしか描けていない。中途半端にしか描かれていないので、どれもこれもさらっと片付いた感が拭えない。愛するレイチェルを亡くしたことさえ淡々と終わり、高潔なる検事デントがトゥー・フェイスへと豹変する様も安易に見えるのだ。

 

 バットマンというキャラクターが主人公という時点で、どんなに彼が今回“闇”であろうと描ける世界には限りがあるのだから、もっと焦点を絞るべきだったろう。

 例えば、正義(バットマン)VS悪(ジョーカー)という点に徹底し、正義のカテゴリ中で、光を目の当たりにしたバットマンが己の抱える闇に悩む、とかにすればよかったのではないかと思う。(うーん、でももしかしてそういう描き方になっているのかなぁ)

 そうはいってもバットマンの世界観とか過去の作品とか色々あるんだろうと思うと、これがアメコミ原作の限界か……という感じは否めない。

 そういった意味で、ダークナイトがオスカーの作品候補に選ばれなかったというのは妥当だと思う。

 

 それから、“闇の正義”みたいなものを、こういった形で描くのはいかにもアメリカっぽいなと思った。 日本映画だったら逆に描くのではないだろうか?という気がする。つまり、いつもは闇(この場合≠光でない意)なのに、裡に秘めたる本性は……もしくは実は光であった、というように。昼暗燈というけれど、そんな形で“闇騎士”を描くだろうなぁと思った。

 

 そういうストーリーの中で、一際異彩を放っていたのがトリックスターのジョーカーだ。

 

 そもそも彼の演技が素晴らしいというふれ込みで足を運んでいるわけで、最初に言ったように先入観を否定できないのだけれど、手段そのものが目的という、しばしば物語に登場する狂人犯罪者を、見事に演じている。

 この手の役どころは、言ってみればスピードのハワード・ペイン、羊たちの沈黙レクター博士なんかと共通するタイプだと思うのだが、今回ヒース・レジャーはジョーカーという登場人物のイメージを、キャラクターから上手に生み出したといえるだろう。感じとしては、ジョニー・デップジャック・スパロウを生み出したのに似ている気がする。

 

 脚本自体のジョーカーの描き方もよかった(と思う)のに加え、役者の演技で相乗効果。作中最も完成されたジョーカーに圧倒されて、ますます主人公のバットマンや、対象人物のハービー・デントは霞んでしまう。

 実は超セレブなバットマンとか(しかし、こんな設定ってありか?漫画だからか?それと、バットマンって超人じゃないの?超ハイテクで武装した軍人みたいでビックリした)、やり手のイケメン検事とかより、このイカレた口裂けピエロの方が、正直よっぽど現実感があった。

 

 こうなってしまうと、バットマンVSジョーカーにもっと的を絞った方がよかったとしか言いようがない。そして、単なる恐怖としてだけでないジョーカーにもっとフォーカスしたのなら、どれほど面白くなったことだろう。それを暗示する大きすぎる片鱗は、そこかしこに散らばっていたというのに。

 しかし、これがヒース・レジャー最後の演技となってしまったのか……と思うと、見ている間も感慨深いものがあった。

 

 バットマンの信念という設定もさることながら、結局、作中では皮肉なことにジョーカーは死なない。

 けれどももう見られないこのジョーカーは、最後に咲き乱れた、一種神がかり的ゆえの最後の名演だったのかもしれない。

崖の上のポニョ

 崖上のポニョを観て来た。間に合った~[:汗:]

 ジブリを映画館で観るのは二回目。「もののけ姫」以来。

 崖の上のポニョ

 

 シアターは初めて行った新宿バルト9。ポニョはシアター3という、比較的小さめの劇場での上映だった。

 バルト9はその名の通り9つの劇場があり、数字が大きくなるに従ってキャパも大きくなるらしい。中は新しいだけに綺麗だし、音響もいいし、椅子も座り心地まあまあで、また行ってもいいなあという感じ。

 

 で、ポニョですが、その前に余談だけど、ポニョって最近のジブリ作品としては、なんか見るからに地味な気がする。ハウルとか千と千尋みたいに、パッと見の派手さがない。

 にも関わらず、どうしてみんな見に行っているのかというと、それは あの歌のせい だと思うんだな。

 

 ♪ポーニョポニョポニョさかなの子~♪

 

 耳について離れない…… 思わず口ずさんでしまう人も少なくないはず。

 大橋のぞみちゃんもかわいいけど、あの「藤岡藤巻ってなんなのさ……」と思ったりしてね。なんかそれですごく注目しちゃうんじゃないかなぁ。

 というわけで、ここに歌に洗脳されて劇場まで足を運んだ人間が一人……

 

  映像は絵本みたいな感じで、とても綺麗だった。

 アニメーションの部分と、景色や背景の部分が全然テイストが違うんだけど、それが気にならない。

 海や水の表現が丁寧で、音もとてもうまく再現されていて、THE☆職人技という感じがした。 特に波や海の描き方はものすごくて、海の怖さが伝わってきた。

 作中の音楽も素晴らしくよかった。久石譲はすごい。と改めて思った。

 

 ストーリーはまあ人魚姫と聞いていたけど、確かにその通りで、とにかく見ていて思ったのは、現実を考えてみてはいけない ということ。

 ファンタジーなんです、ファンタジー

 

 ポニョが魚から人間になったのはまあいいとして、 えっ、その波に飲まれてまだ運転できるのかよ、りさ!とか、 町がみんな水の底に沈んじゃった……あのスーパーの商品はダメになってるね……あーあ、かわいそう、とか、 なんで幼子を抱えた夫婦がフツーにボートに乗ってんだよ、とか、 そういうことを考えてはいけません。ファンタジーなんです。ファンタジー

 

 自分が宗介(主人公)と同じ年くらいなら、そんなこと考えずにのめりこんで見ただろうなーと思うにつけ、大人になっちゃった自分を感じました。子どもにとっては、とってもわくわくする映画なんじゃないかなあ。

 

 自然の描写も綺麗だし、宗介はお年寄りに優しいし、小さい子に見せてあげたい映画だと思いました。

 その分、大人が楽しめるかという点については、諸手を挙げて賛成、というわけにはいかないかも。

 なんといっても、知らずに身についた常識や既成概念を追い払ってみないと始まらない。 加えてストーリーもどちらかというとドラマチックな展開はなく、謎とかもないし、本当にストレートに突進んで見るという内容だしね。

 起承転結でいうと、転がないのだ。拡大版の承があるって感じ。起・承・大承・結みたいな。

 個人的にどうかといわれれば、私はすきですけど、人様に勧めるとしても、あくまで個人的に、と付くのは否めない。

 

 あと気になったのは、やっぱり声優。

 所ジョージは好きですけど、フジモトはいまいちだった。フジモトの声が所ジョージじゃなかったら、もっとよかったのに。

 あと、山口智子も正直下手でしたorz

 なんでそんなに棒読みなのー ジブリはいつも声優で落ちるね。すきなので残念。

 

 トータルで点数をつけるなら、78点ってところかなぁ。この場合、100点はナウシカラピュタということで。

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