読書百冊意自通ズ覚書

読んだあと、何かしらの余韻を残していく物語たちを、みんなどんな風に読んでいるのだろう?The note of reading one hundred books makes you understand more clearly.

ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック

とても読み易い小説以外は、小説より そうでないもの、、、、、、、の方がずっと読み易い、と最近思う。

 長い間ほとんど小説を中心に読んできたので、そういうことに気づかなかった。もっとも、それは単に自分の想像力がひんこん、、、、だからというのにすぎないかもしれない。
 しかし、それでも小説というのは、描かれている世界をイメージするだけですごくエネルギーを使うので――前述した「とても読み易い」例外的な小説とは、このイメージがおどろくくらいすんなりできる。とても数少ない(その理由はわからない[1])――なかなか読むのに骨が折れる。
ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック (中公文庫)

ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック (中公文庫)

 
 そういう観点から見てみると、この『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』は第一部、第二部、共にスコットとゼルダについて書かれた伝記みたいなもので、読み易く興味深かった。
 そして作家というのは――いろんなタイプが、もちろんいるんだろうけれど――古今東西、め ちゃくちゃな人が多いなという気がしてしまう。
 
 このゼルダフィッツジェラルドの絶望感というのはなかなか苦しいものがあった。
 そしてほんのわずかだけれど、ゼルダの持つ、彼女自身をも破壊してゆくヴァイタリティーというもののもたらす姿を、村上春樹は「 直子[2]」に書きあらわしてみたのかもしれない、と感じた。もちろんゼルダ=直子という事はないけれども。
 しかし、なんとも不幸な二人の青年たち――そして一組の夫婦、である。
 たぶん、生きた時代が良くて、悪かったんだろう。
 

<翻訳された2編の小説についての記述>

その1『自立する娘』On Your Own

 冒頭の「ノート」の部分ですでに訳者が指摘している通り、この作品は「結末の弱さ」と「人物の掘りさげ不足」が欠点である。加えて「後半の三分の一を非 ハッピーエンド小説として書きなおせば、これはかなり出来の良い短編小説になっていただろう」という見解に賛同する。

 とにかく、今挙げた指摘で、この物語は言いつくされてしまっている。

 

 でも、確かにフィッツジェラルドは「ひどい短編」を書いたかもしれないけれど、「ひどく書くことはできなかった (He could not write badly)。」ということはよくわかる作品かもしれない。そう、「何はともあれ読ませる」し、「文章は華麗」だ。

 こうしていざこの村上春樹訳の“On Your Own”について書こうとしてみて、改めて前置き「『自立する娘』のためのノート」に必要な事は全部書きとめられているのだ、という事に気づく。ここまで、ほとんどこの「ノート」からの引用になっていることからもわかる。

 これだけフィッツジェラルドと向きあっている人が書いたものについて、自分に何か言うべき言葉なんてあるのだろうか?そうだ、ないのだ、『華麗なるギャツビー』さえもろくに理解できないのだから!
 
 しかし、一つだけ加えるならば、この“On Your Own”という小説について、これだけ短いページ数の中でこんなにも適格に述べられるという事に感嘆してしまう、という事だろうか。
 フィッツジェラルドについては数多くの、いろんな国の人が研究しているだろうし、また彼のことを愛しているだろうけれども、その中の一人に村上春樹という日本の作家がいた事は幸せな事だと思う。
 もっとも、フィッツジェラルド自身はそんな事は知りようもないし、喜びようもないのだけれど。
その2『リッチ・ボーイ(金持ちの青年)』The Rich Boy

 正直言って、「ノート」の部分にフィッツジェラルドの短編ベスト3(か「控えめに言ってベスト5」)を選ぶとき、「まず落とせない作品」であると書かれていても、それほど期待してはいなかった。というより、この文章がろくに目に入っていなかったのかもしれない。

 ともかく、そんな風にほめたたえられている 作品だ、とはまるで思わずに読み始めた。

 前載の『自立する娘』がいわゆる「一級品の短編に比べるといくぶん格が落ちる」作品だったせいかもしれない。

 

 読み始めて、次第に物語に引きずり込まれ、気がついた時にはすっかり魅せられてしまっていた。読んでいるあいだ中、自分がとてつもなくこの物語に惹かれていることを自覚せずにはいられなかった。

 こんなに惹きつけられるのは、やはり「あまりにもリアリスティックにすぎる」せいだろう。サタデイ・イヴニング・ポスト誌はそれを理由にこの作品の掲載を断ったというけれど、それこそまさにこの作品を生きづかせている(息づかせている)最大特質であるのではないか、と思う。

 この 息の詰まりそうな[3]リアリティーが作品を作品たらしめているのだ。

 

 話は少し変わるけれど、この二編の作品はすごく読み易かった。とても数少ない例外的に読み易い小説に分類される。

 それは、訳者である村上春樹自身が、自分にとって「例外的に読み易い小説」を書く作家だという事もあるし、フィッツジェラルド自身が「例外的に読み易い小説を書く作家だ」という事もある。

 どっちがどれだけどうなのか、という事は正直よくわからない。ただこう書いて言える事は、「例外的に読み易い」という意味で、この二人の作家は自分にとって非常によく似ているという事だ。

 村上春樹フィッツジェラルドをリスペクトしているから、というのをその理由に挙げる事もできると思うけど、それってものす ごくつまらない、、、、、解釈の仕方だと思う。さびついている。

 

 本文について。

 

 この物語に文字通り「引きずり込まれた」事はうまく説明できないし、そういう事をうまく説明できないからこの物語があるんだと思う。一番いいのはこの小説を読んでみる事だ。もちろん、同じような感想を抱くとは限らない。

 故に特に言うべき事はないのだけれど、この小説の持つ「リアリティ」についてだけ少し。

 

 最もリアルに感じた、共感してしまったのは、アンソンがイェール大学の同級生――もちろんそれ以外のアンソンを必要としている人全て――の面倒を、長い間見てきて、

「今では」その人々が「彼らの経済的な悩みも昔話となり、(中略)彼らは旧友アンソンをいつも喜んで迎えたが、会う時はいつも上 等な服を着て今ではちょっとしたものなんだというところを見せようとしたし、悩みごとがあったとしても彼には打ち明けなかった。彼らはもうアンソンを必要としないのだ。」(p.295)

 という部分である。

 

 この部分にリアリティを感じるのは、この場面が中でも特にリアリスティックに描かれている、というわけではなく(もちろんたいへんリアリティに溢れているところだけれども)、自分が、、、そう感じる、という事だ。

 つまり、一般的に見て作品中最もリアルなシーンだというわけではない。このシーンにリアルさを感じる人は多いかもしれないけれど。

 自分がここにリアリティを見い出すのは、そういうタイプの人間だからで、それは性格とか経験とか生活環境に寄する所が大きい。自分にとって何がリアル、、、、、かはその人のリアル、、、──生活によって異なるのである。

 そしてこのシーンは自分にとって、おそろしいくらいにリアルだ。

 

 例外的に読み易い小説のほとんどがそうであるように、アンソンもその人となりがとても想像しやすかった。「アンソン」のカラー、というものはとてもつかみ易く、生き生きと感じられた。

 

 “The Rich Boy”──リアリスティックで、おそろしいほど文章が(本当に)精緻で、「えも言われぬ」小説だった。

 少なくとも、この先の長い間、この短編は私に心の中にとどまり続けるだろう。

 
notes
[1] 自分のイメージのせいか、作者の力量のせいか、3つ目の理由のせいか
[2] ノルウェイの森』の直子。
[3] 訳者自身も「息詰まるばかりの」と表している。