読書百冊意自通ズ覚書

読んだあと、何かしらの余韻を残していく物語たちを、みんなどんな風に読んでいるのだろう?The note of reading one hundred books makes you understand more clearly.

文章読本

目からウロコがボロボロ!落ちた本書である。そのウロコをどこまで書き切れるかはなはだ疑問だけれど、言いたい事の中核くらいは何とかなるだろう。

 

 第一章~第四章までは、いまいちピンとこないまま読み進めた。それは、外側はよく見えるけど、内側は曇りガラスの向こうにぼんやり見えるだけで、形は判別できるものの、細かいところまではわからない、というような感じだ。

 それでも、基本的に「全然わからない」ことはなかった。

 例えば、「第二章 名文を読め」とか「第三章 ちょつと気取つて書け」とか、タイトルを見ただけでも頷ける。もちろんその内容だって別段問題ないのだが、しかしながら読んでいていまいち「そうか!閃いた!」的でない。


 その理由の一つは、引用されている文章やそれについての丸谷の解説を、自分がよく理解していないせいだろう。

 原文やその著作を知らないので、それについて述べられたり、それを使って説明されてもピンとこないのだ。だから、第一章~第四章までは、わかるような気もするが、結局丸谷が何を言いたいのか、その核がいまいち掴めない、という感じだった。
 ところが。
「第五章 新しい和漢混淆文」。ここへきて私は「な・る・ほ・どーっ!!」とおおいに閃いたのである。

 実のところ、この第五章も、最初の方は第四章までと同じく、引き続きよくわからなかった。しかし中ごろになって突然、丸谷の言いたい事が嵐のようにドーッと理解できたのだ。それはこれぞまさに閃き、であった。

 なぜそうなったのか。

 それは第一に、第五章の内容が今まで自分がモヤモヤと考え続けていた事と同じで、それらが結びついた時、途端にすべてを理解した、ということと、第二に、モヤモヤ程度で、自分の中でハッキリしなかった(させられなかった)考えというものが、この第五章でまとめられていて、さらに色々な具体例を示し、裏付けとともにわかりやすく論じられていた、という、主にこの二点から、突然パッと理解したものと思われる。
 それははじめの、曇りガラスの向こうの中核なるものが、ドン!と目の前に虫メガネぶら下げて現れた!みたいな感じだった。
 で、それらは一体何であったかというと……以下は極めて私的見解。
 
 本書の中で丸谷が述べているのは、

 漢文的文法、漢文的常套句、漢文の言い回しというものが日本語の基礎にはあって、それは無視できないし、むしろそれがなければ文章が理解できないとすら言えるものである。
 そもそも日本語は漢文をベースに出来ており(ひらがなだって元は漢字だ)、長い間に様々な変化を遂げているため、パッと見てすぐさま判別はできないが、その漢文的要素が根本に刻まれている。さらに言えば、漢文は日本語の根本そのものなので、日本語を扱う、そして考える上でそれを排除することはできない。むしろそこを深めることによって、より日本語の幅というものが広がり、また日本語も理解し、扱えるのである。
 という事だと思う。

 始め、その日本語の根本に漢文が存在する、ということが、具体的によくわからなかった。しかし詳しく書かれていくうちに、成る程と理解できた。なぜなら、自分の中の体験と、そこに書かれていることが一致した瞬間があり、丸谷が言うその「漢文のベース」が、自分の私の中にも発見できたからである。
 例えば、よく考えるとこれぞまさに漢文、という表現がある[1]。文章を書く時、そういった表現を当たり前のように使っているが、それはつまり、自分も漢文ベースを体得しているという事に他ならないだろう。
 そういった表現は、すでに「日本語」として漢文を会得している人の文章から知らず知らずの間に吸収したり、中学や高校での漢文の暗記、などによって自然と身についているのである。論語、絶句、漢詩平家物語伊勢物語方丈記徒然草源氏物語枕草子……と当時次々と暗記させられた[2]が、漢文というものと、その文章のリズムというものを、そこでしっかり体得させられていたのである。
 こうしてみると、漢文はすでに日本語の基礎部分に組み込まれていることがよくわかる。それはもはや漢文としては判別されず、日本語として吸収・消化されている。

 その日本語のベースが漢文なら、漢文の修学は免れないのだ。

 この日本語のベースである漢文を学ぶ意義、を派生させると、小説や様々な文章から体得することの重要性に行き当たる。漢文だけではなく、この言い回し(表現)をたくさん身につけて文章を書き、たくさん身につけた人やこれから身につける人に、それを使って文章や言葉で伝える。[3]それによって文というのは幅と深さを持ち、より深い理解を可能にするのである。
 
 そういう、言わば体で覚えたものたちが、そこかしこに使われて文章全体を成す。それは皮膚みたいなもので、表面には表れていないが、一つ一つの細胞が集まって皮膚を形成しているのであって、その細胞が一つ欠け、二つ欠けしたら完全な皮膚は出来上がらない。ところがその一つ一つの細胞が確かに存在し、かつまた優れていたら、美しい皮膚──すなわち文章ができるのである。
 これがいきなり、この第五章でストーンと落ちてきたのだった。

 つねづね、文章を書く人間が古典に親しまないのは問題だ、と考えていた。そしてさらに、クリエイトする人々が、過去の文章や、文化を踏まえず、学ばずにクリエイトしようとする結果、底の浅いものしか生まれないのではないか、と思っていたが、それも本書の中で証明されたように思う。
 新語について、新語というのはまったく新しい言葉ではない。もしそうなら、誰も知らない言葉だから意味が通じない。今まである言葉を変化させて新語にしている[4]のだ、とあったが、それとよく似ている。
 高いジャンプをするには、古典や過去の文化を学び身につけるという助走が大切なのだ。
 
 本書は、個人的に、ずっと思い(考え)ながら形にしなかったもの、できなかったことを形にしてくれた、と言える。丸谷の説明のわかりやすさも、改めてさすがなものだ。
 だからこそ、納得という閃きを感じられたのだろう。
 
notes
[1] 
将に~だ、~といへども、など。
[2] どの学校でも、また現在もさせられているのかわからないが。
[3] 例えば小説家などが該当するだろう。『遊び時間2』で文筆家が色々知っているのはあたり前、と言っているのと繋がっている。

[4] それは新しくないから悪い、ということではなく、そうでないと成り立たない、ということ。

文章読本 (中公文庫)

文章読本 (中公文庫)