読書百冊意自通ズ覚書

読んだあと、何かしらの余韻を残していく物語たちを、みんなどんな風に読んでいるのだろう?The note of reading one hundred books makes you understand more clearly.

日本語で一番大事なもの

すごい。としか言いようがない。

 大野晋もすごいのだが、この人は自分の畑の話なので(それでもその分析や発想・発見、切口などなど、すごいのだろうけど)置いておくとして、丸谷である。

 

 アナタは何者?だって研究対象はジョイス[1]だったはず。

 以前、国語の教科書を片っ端から調べた、、、、、、、、と言っていた時も「何者?」と思ったけれど、今回も「私が調べた限りでは見つからなかった」というものがたくさん出てきて、やはり「丸谷何者?」と何度も思わされた。間投詞 の「や」は『古今集』には出てこない、とかいう内容がばんばん出てくる。

 今までの文法の専門家が書いた本のことや、その内容・違いなど、本当によく知っている。もう何者?を通り越して、脳ミソどうなってるの?の世界である。

 こういう丸谷の、もはや脅威ともいえそうな博学ぶりについては、解説で大岡信[2]が 実に的確に述べている。

 

 この解説の文章は本当によくできていて、これだけの本について、内容的なことも、二人の共著者についても、ひじょうによくまとめられている。そのため、ほとんど削ったり、抜粋するところがないゆえ、抜粋はしないが、この優解説は短いのでぜひ読むべし。

 解説を読んで最も頷き、そしてホッとしてしまったのは、大岡信でさえも丸谷のことを「何度この本を読んで嘆じたことか知れない、この人は何という読書家であろうか。」と言っているところだ。そして大岡信ほどの人もそう思うのだということに正直ホッとした。そーだよな、丸谷はクロウト目から 見てもフツーじゃないよな。

 

 本文の二人の対談について。

 

 この本は文法的なことが多くて非常に難しくて、正直言って後半は全然わからなかった。最初はいろいろ考えながら[3]読んでいたけれど、途中で挫折し、理解を放棄して全く考えずに読み進めた。

 とにかく読むべし!となんとか完読にだけは至ったが、文法にはやはり暗いのでどうしようもない。わかるのは主語・述語・目的語・助詞・助動詞・動詞・形容詞・形容動詞・接続詞、くらいがせいぜいで、格助詞とか間投詞などなどなど……になってくると定義からしてあやふやなのだ。

 

 そして、この本がちんぷんかんぷんだった最大の理由というのが、

 和歌がよくわからない。

 この一言に尽きる。[4] 

 

 昔から、和歌はよくわからなかった。俳句はまだマシだが、和歌はそれとは全然違うのだ。

 俳句には季語があるし、五・七・五で短い。それに俳諧は江戸時代に確立しているから、和歌なんかに比べると、ある程度、今の現代日本語に近いものがあるから、まだわかる。けれども、俳句の感覚で和歌は理解できないのだ。

 大野晋もこの本の中で、私は俳句のことはよくわからないけれども……と言っており、ということは、和歌と俳句はかなり違うということになる。和歌の知識で俳句は読み切れない[5]わけだ。逆もまた然り。

 それに和歌になると決まりごとも多いし、本歌取りなんかされていた暁には、もうこれは本当にわからない。

 

 とにかく和歌がわからないのに、こういう対談中に和歌ばっかり(もう和歌オンリー)例に出されると、その例題文(つまり和歌)がよくわらないのだから、畢境話もよくわからないわけである。そんなの当然だ。

 そうして後半は和歌の理解を放棄したので、理解には程遠いものになった。

 

 しかし読み手の理解力はともかく、この二人が普通以上にわかりやすく語っているのは確かだろう。丸谷の切り込みがいいし、大野晋も専門知識を角度を変えて話してくれている。大岡信の言うように、丸谷の用意周到さもすごい。

 それにしても丸谷の脳ミソってやっぱりどーなってるんだ。

 頼んだら半分くらいくれないだろうか。

 

notes

[1] 何度も書いている気がするが、丸谷才一氏の専門は(元は)英文学で、アイルランドの作家ジェイムス・ジョイスを研究していた。(そうだ)大がかりな『ユリシーズ』翻訳も手がけている。

[2] 大岡信も相当文章が上手く、感心させられる。文章が著者の体の一部みたいになっている心地よさがある。

[3] 自分の文法の知識を記憶の奥の方から引っ張り出しながらなんとか追いついて行こうと努力をしていた。

[4] 真面目に、ダジャレではない。

[5] ここまで言及すると研究の域になるのでまた話が違ってしまうけれど。