文学全集を立ちあげる
まずびっくりしたのは、丸谷があまりしゃべっていない、ということだ。
まぁ丸谷もお年だし、オブザーバーとして考えていたのかな、と思うけれど、それにしてもびっくりするくらいしゃべっていない。今までの対談では、だいたい丸谷の様々な知識や見解が展開されていくパターンだったと思うのだけど。
それは、一つには、丸谷もお年で、若い二人に任せるか、的なところもあったと思われる。
もう一つには、この二人の知識量と意見がハンパない。だから丸谷も、自分がわざわざ言わなくても、この二人が言ってくてるから自分は必要なとこだけ突っ込んでおけばいいや、と思っていたのかもしれない。
そう、とにかく、鹿島・三浦両氏の人間文学辞書とも言えそうな知識がハンパないのである。
あまりの博識っぷりに[1]、如何に本を読んでいないか痛感させられることになった。なぜなら、名前は知ってるけれど読んだことはない、ならまだしも、名前すら見たことも聞いたこともねえ!という作家がいっぱい出てくるのだ。それも外国文学ならまだしも、日本の文学で、である。
ある程度は知名度はあるだろうが、マイナーなのだろう、と片づけたいところではあるけれど、この対談のコンセプトを思い出すとそうも言っていられない。そもそもこの本、架空の文学全集を作るとしたら、誰の何の作品を選出するか?という主旨の対談本なのである。
丸谷が最初に述べているように、いわゆるキャノン[2]的なものにしたい、と言っているのだ。ということは、ここで挙げられている作品及び作家は、それなりに知り、読んでおくべきということで……。
と、見聞きもしない作品てんこ盛りながらも、中には読んだことのある作品ももちろんある。漱石とか芥川とか太宰とか、外国文学でいうとディケンズとかブロンテ姉妹とかドストエフスキー、ガルシア=マルケスなどである。そういう作家に言及しているところになると、なるほど、と思うし、的外れだと感じるところはないので、恐らくこの人々の審美眼は確かで、自分が全っっくわからない作家についても、妥当な、もしくは的確な意見を述べているのだろうと思われる。
とにかく、今からでも読まなければ!と再認識させられた。
同時に感じたのは、読むべき本が多すぎる、ということだ。
この架空の全集を見るとよくわかる。日本人は日本の歴史が長いので、自国の文学というものがそもそも莫大な上に、現代文学とのつながりという意味でも西洋文学にも重要な書物がたくさんあり、それにプラスして日本の古典と密接な中国文学があり(これは日本の古典を理解する上では必要最小限でもある程度、読まなければならないだろう)、さらに日本及び出版の中心・NY発の現代文学、アメリカ文学、そして南米の文学……と、本当に読むべき本が多すぎる。千年以上の歴史のある自国の文学だけ見ても、相当な分量である。こりゃ大変なわけだ。
そして、人間は一生に読める本の量は決まっている。とも思った。
どんなに時間があっても、人生のすべてをかけたとしても、世の中のすべての本を読むことはできない。
そう思うと、読むべき本は種々あれど、限られたチャンスの中で厳選する必要がある。
そういうことのためのキャノンであり、この全集(架空だけど)なのだろう。
また、最後の方の、今の若い作家が本を読まない(文学を学ばない)ゆえに才能を枯らしてしまう、という部分が印象に残った。
感覚だけで書いてデビューして、でも読書量が少なく学んでいないので、技量が身についておらず、そのまま衰退してしまう。出版界でも、その作家が五十、六十代になることを考えて育てることはせず、十代でもヒットしそうならデビューさせて、売って終わりだから育たない、もったいない、と。
そういうことに気づいて、デビューした後、自ら勉強したのが大江健三郎で、彼は今の作家のさきがけというか、はしりみたいなところがあるねという話だった。まことに納得させられる。
文学というのは奥が深く、幅も広くて上を見ればキリがないけれど、とりあえず自分のできることから始めよう。
さしあたって、この架空の全集から次に読む本を選んでみようか。
notes
[1] おかげで、この無知代表選手の私めは、中村光夫の近現代文学史以上に、ちんぷんかんぷんなところだらけだった。
[2] 読むべき本の規範のようなもの。欧米では確固たるキャノンがあるらしい。(本書抜粋を忘れたので記憶による)