読書百冊意自通ズ覚書

読んだあと、何かしらの余韻を残していく物語たちを、みんなどんな風に読んでいるのだろう?The note of reading one hundred books makes you understand more clearly.

二十世紀を読む

山崎正和氏は本書で初めて知ったのだが、この人、すごい。大学院教授であり、劇作家ということ。評論の専門家らしい。

 基本が、というか、ルーツが「劇作家」という、ひじょうに文学寄りの人なので、感覚的にも知識的にも、丸谷と相性抜群なのかもしれない。もっとも、知識的な面はこの二人は凄すぎて、ルーツうんぬんのレベルじゃないけれど。

 しかし、知識量的なことをいうのなら、丸谷より山崎氏のがすごいかもしれない、と思った。丸谷の知識は、やはり文学寄りなのだ。

 ただ、いつも丸谷に感嘆させられるのは、この人の専門が英文学だということ。英語教師で、とにかくジョイス。そこだけで相当なものがあるという前提の上で、更に国文学までヘタすりゃ専門家よりも詳しいというのはいかがなものか。もう超人の域だ。それでいて、山崎氏のようにルーツは「作家」なのだ。

 

 なるほど、この二人、「劇」が付くか付かないの違いだけで、ルーツは同じなのだ。二人とも「作家」、だから話が合うのかもしれない。

二十世紀を読む (中公文庫)

二十世紀を読む (中公文庫)

 

 山崎氏、何が驚きかというと、まず、対談で丸谷と同じくらいしゃべっている――それどころか、丸谷よりもしゃべっている[1]という点である。

 加えて山崎正和氏、文学に限らず、社会的なことにまで大変詳しい。氏の著書を他に読んでいないので正確なところはわからないし、極端に言えば、他の著作を読んで山崎氏についてもう少し知っていく中で、今述べている意見を翻す可能性がなきにしもあらず――つまりそれだけこの少ない情報量では、山崎氏に対する見解を正確に読み取れないという前提なわけだが――ではあるけれども、ども。

 

 社会科学的、歴史的、哲学的、分野における知識量、半端じゃない。この人の場合、どうも前述した分野すべてに平均して詳しいというよりも、歴史や哲学を土台にして、現在は社会学社会学評論的なところに興味を持って、いろいろと考えているようだ、という感じがする。きっと臨床心理なんかも詳しいんだろう。

 

 そんなこんなで、能ミソに一体何が詰まっとんのじゃわれ!自分らなんかと実は違った成分で能ミソできてるんやろーあんたらーそれとも己れの年が片手の指にも満たない時分に空飛ぶ円盤に連れ去られて意識のうなってる間に耳ン中から特殊チップ埋め込まれたんやろ!そうに違いないわーせやなかったらおかしいわー人間とちゃいますのん、実は?

 と言いたくなってしまうような二人[2]対談の内容を、少し見ていくことにする。

「カメラとアメリカ」

 面白かったのは、マーガレット・バークホワイトを通して語られる二十世紀であり、アメリカの持つフロンティア・スピリットであり、女性の姿というもの。

 これを読んでM. バークホワイト自身に興味が湧くかといえばそんなことはなくて、彼女を通して二人が語る二十世紀であり、ユナイテッド・ステイツ・オブ・アメリカ、というものが興味深く――Interesting――面白い。

 レニー・リーフェンシュタールが出てくる辺りも、興味深い。[3] 

 

 ここで丸谷がマーロウを引用しているのだが、このR. チャンドラーのフィリップ・マーロウという人は、アメリカというものを何か集約しちゃったようなところがある人なのだろうかと思われた。(その辺のことはよくわからない)

 しかし、丸谷は話の中でよくジョイス出してくるから、同様に単にマーロウも好きなだけかもしれない。ジョイスもマーロウも「何か」を背景に持っているからよく話の引き合いに出すのか、丸谷が好きだから話の引き合いに出して背景を持たせるのか、どちらかわからない。卵が先か鶏が先か、ということなのかもしれないし、その両方なのかもしれない。

ハプスブルク家の姫君」

 この回では十九世紀末から二十世紀へ、芸術と政治と民族etc...…ということが一色多に書かれている。

 近代主義の渦中であるウィーン――ハプスブルク家――を取り上げて、十九世紀末から二十世紀へ向かう時代の変革を話し合っている、といえそうだ。ちなみに、山崎氏曰く、「二十世紀というのは、私は一八八〇年代頃から始まっていると思っていますので」(「ハプスブルク家の姫君」p.53))。

 そんなことはわかり切っていることで、その主旨というものは「まえがき」にちゃんと山崎氏が書いている。たいだいこのタイトルを見よ、『二十世紀を読む』。

 

 にも拘らず、なぜわざわざ主旨が主旨たりえることを言い出しているのか。

 それは、題材がいちいち面白くて、加えてそれについてのこの二人の知識量といったらハンパじゃなく、一つ一つ読んでいるとつい題材そのものの面白さに引き込まれてしまう。

 しかし、引き込まれた後でちょっと引いて見てみると、あんなに題材そのものについての話が面白かったのに、よく見ればやっぱり題材そのものではなく、題材を利用して二十世紀について語られていたことに改めて気づき、驚くのだ。「タイトルの通りだ!」と。

 読んでいる最中は、題材が面白いので二十世紀のことなどあまり意識してない。しかし、トータルで見るとやはり二十世紀について語られていて、主旨が主旨たりえることに感嘆させられるのだ。

 

 余談だが、これでやっと「第一次世界大戦の引き金になったサラエボ事件で暗殺されちゃったどっかの貴族」が、エリザベートの祖父ヨーゼフの弟、カール・ルードヴィヒの息子のフランツ・フェルディナンドで、ヨーゼフの正式な皇太子になっていて、1914年に暗殺されたのだ、ということがわかった。二人の対談がいかにわかりやすいか知れようというもの。(別の問題もあるが)

「近代日本と日蓮主義」

 ここは、日蓮主義というものが戦直前の日本を動かしていたかという、自分には未知なる話だった。やっぱり日蓮はあぶねぇ。そしてやっぱり賢治は怖い。

 

 フーリガンの話はとても面白かった。

 フーリガン(hooligan)と呼ばれる人々がいることは知っていたが、その実体については全く知らなかった。

 ここ、あんまり面白いので二度も読んでしまった。このフーリガンについての説明がすごくツボだった。なんかもう、むちゃくちゃなのだ。[4]このむちゃくちゃ加減が半端じゃないので唖然としてしまう。

 そしてそのフーリガンのめちゃくちゃさを語りつつ、サッカーの歴史性、国際性、そしてイギリスの産業化――なんと言ってもイギリスは産業化の草分(?)的存在なわけで、裏を返せば産業化に伴い起こる様々な問題にも一番早く対応してきたということ――、今でも残る階級意識についても、語っている。

 

 これを読んで初めて気がついたのは、スポーツは全て同じものが、同じだけ全世界的に(あるいは先進国で)行われているわけではないのだということ。

 言われてみればごくごく当たり前のことなのだが、ラグビーはイギリス人しかやらない、野球は日本人と米国人しかやらない、バスケットもバレーボールもアメリカで二十世紀になって発明されたゲーム(だからNBAはすごいのだ)、そしてサッカーだけが国際的普遍性が高く、競技人種、民族は最も多い(p.159)と山崎氏が言っており、なるほど、確かに全ての競技が全ての国で同じように扱われているわけではない。

 日本がオリンピックで弱い競技があるのも当然なのだ、と改めて思った。逆に言うと、だからサッカーのワールドカップはこんなに盛り上がるのだ。ふむ。

 

 

 終わりに。

 なんだか収集のつかない文章群になってしまった。もし本書について他人様になにか言えることがあるとすれば、とにかくもう「読んでみて」しかない。そもそも、この二人の対談について何か言えることなんてあるわけもないのだ。

 ただ「面白かった」だけでもいいじゃん、なんて思ったり。

 

notes

[1] なんだかひどい言い草のようだが、そうではなくて、これはもうちょっとやそっとのことではないということ。

[2] 阿呆極まりない文章ではあるが、驚嘆の意は伝わるであろう。(と思いたい)

[3] 沢木耕太郎オリンピア』参照。ちなみに映画『オリンピア』は、1部「民族の祭典」 2部 「美の祭典」 

[4] P.152の「フーリガンの好きなもの」のリストを見よ!