読書百冊意自通ズ覚書

読んだあと、何かしらの余韻を残していく物語たちを、みんなどんな風に読んでいるのだろう?The note of reading one hundred books makes you understand more clearly.

キャッチャー・イン・ザ・ライ

よくある話だけど、この『キャッチャー・イン・ザ・ライ』――ライ麦畑でつかまえて――も、何となく自分で考えていた話と、だいぶ違っていた。

 いわゆる「青春の文学」として名高い作品だし、もちろん一度は読もうと試みた。ちゃんと十代の時に。

 でもその頃出ていた野崎孝の訳にしょっぱなからついて行けなくて、最初の2、3Pであっさり挫折しちゃったのだ。だってあのホールデンのいかにも若者的!口調があんまりにも 嘘っぱち、、、、ぽくて、正直とてもついていけそうもなかった。辛辣だけど、要するにそれが十代ってものだよね。

キャッチャー・イン・ザ・ライ

キャッチャー・イン・ザ・ライ

 

 そんなさらっと読みの印象とタイトルから、まったく勝手な想像をふくらませて何となくこんな感じの話だろう、と具体的にではないけれど感覚的に考えてしまっていた。

 そんな理由から今まで読めないなと思っていた[1]この本が、村上春樹訳で出たと知った途端、これなら読めるって思った。村上春樹っていうのはそういう翻訳家なんだよ。うまく言えないけど、とにかくたいていの本を読みやすくさせちゃう腕の持ち主なんだ。


 そんなわけで楽しみに開いてみれば、さすがに村上春樹訳だけあって、十八番の「やれやれ」から始まって、「ほんとのところ」とか「まったく」とかの連発 だった。いわゆる村上ワールド全開というわけ。

 それでも、サリンジャーの描いたホールデンのストーリーが壊されてしまうわけじゃなかった。

 それらは言葉としてよく使われていたし、確かに村上春樹がよく使う言葉だったり独特の言い回しなんだけれど、ストーリーをぬり変えてしまうわけじゃない。

 むしろ、この ホールデン・コールフィールド君の物語をより鮮明に描き出そうとしていて、そのアイテム――とにかくみんながホールデンズ・ストーリーに夢中になれるように――として使われているだけなのだ。ただそれが、原著者サリンジャーの描いたホールデンズ・ストーリーと比較してどれだけ近いものなのかはわからない。でもそれが翻訳ってものだよね。

 

 ホールデンはほんとに繊細で、そして誰もが一度は通る通り道を迷い込むようにして、まっすぐ進んでいるみたいだった。

 ホールデンの抱く社会への猜疑心、大 人の欺瞞を受け入れられない心、それでも成長してやがて大人になってゆかなければならない自分――どっちへ行ったらいいのかわからなくなってしまう気持ちは、本当によくわかる。

 それをみんな乗り越えて大人になるのだと言う事もできる(というか、一般的にはそう言うのだろうけど)し、サリンジャー自身もアントリーニ先生を通して、初めてまとも、、、ホールデンの抱えている問題についてとか、「自分の知力のサイズを知るためのアドバイスなんかを与えて」自分自身について考えさせようとする。

 

 けどきっ とサリンジャーはそういう事が言いたいわけじゃないんだよね。つまりホールデンが「自分の知力のサイズ」を測り始めたりしたら終りだってこと。

 大人になるにはそういう事ができるようにならなくちゃいけないと人は言う。みんな言う。だからホールデンはペンシーを放校になって家にも(しばらくは)帰れなくて、 アントリーニ先生の所にだっていられないのだ。

 

 でもホールデンは大人になる前にみんなが持っていたものを、大人になるため、、に失くすことができないし、失くしたいとも思ってない。実のところたぶん失くすべきだとも思っていない。

 だから彼は「よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチする、、、、、、んだ。(中略)ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。(後略)(p.287)」と言うんじゃないかな。

 だって、前を見ないで崖から落ちた子どもは、本当に、、、みんな立派な大人になれるのだろうか?例えばアントリーニ先生みたいに?

 でもそのアントリーニ先生だって「自分の知力のサイズを知っ」ていたとしても、大切な話はしたたかに酔っ払わないとできなかったりするし、ゲイかもしれなかったりするのだ。(それはホールデンの勘違いかもしれないけれど)


 ホールデンが水曜日より前にペンシー校を出てあれこれやっている――それって重要なことなんだろうけど――のがいささか飽きてきたなぁというところで、それまでホールデンの話にしか出てこなかった、妹のフィービーが実際に登場する。

 

 フィービーの登場で話はがぜん生き生きしてくる。

 何と言ってもフィービーは賢い上に愛らしい。ホールデンほんとのところ、、、、、、、を話せるのは子どものフィービーだけなのだ。

 参ってしまったのは、母親がフィービーのためにとても素敵な服を買って来るところ。だって賢いフィービーが「ばりっとした身なりをしている。」ところを想像してごらんなさい。本当、「たいていの子どもたちって、たとえ親が裕福であっても、だいたいにおいてひどい服 を着せられている」もんね(p.264)。

 皮肉な事に、ホールデンのフィービーは、裕福な親の与えるものを見事に使いこなしているのだ。

 

 ホールデンは混沌の中心、ニューヨークを離れると言い、もう学校へ行かないと言うフィービーに「君は学校に戻らなくちゃいけない、、、、よ。(後略)」(p.343)とも言う。

 ホールデンは大人になりつつあるのだろうか?けれどホールデン精神科医にかかっていて(p.352)、それというのもまだ「ライ麦畑のキャッチャー」になりたいからだと思う。でもそれが難しくて、混乱しているのかもしれない。

 それで「誰彼かまわず懐かしく思い出しちゃったり、、、、、、、、、、、、、する。」(p.353傍点引用者)のかもしれない。

 

 どれくらいかは見当をつけていなかったけれど、このストーリーはずっと昔に書かれたものと思っていた。でも実際はずいぶん最近で(ギャツビー[2]よりも後なのだから)、現在のストーリーと言ってもおかしくないくらいだ。そもそも、訳を新しく今の時代に合わせる意図も込めて村上春樹は訳しているわけで、そのせいも十分あると思うけれど。

 

 読んでいる間中、あまりにホールデン的なホールデンに感化されて、ずっと彼の語り口で色々思う事があって、それ以外で考えられないくらいすっかりホールデンだったので、覚書はホールデンになり切って[3]ごちゃごちゃごたくは並べずに純粋に感じた事を書こうと決めていたのだけれど、まだ日は経っていないにもかかわらず、ぜんぜんホールデンで書くことができなかった。[4]アホみたいだ。

 まぁそういう「それっぽい」スタイル(文体)って一種まやかし、、、、みたいなもんだよね。書きたいと思っていた事を書いたはいいけど(それって実はフィービーの服のことだったりする!)、本当にひどい文章になってしまった。

 

 この本には色々事情があるらしくて、訳者の解説がついてなかったけど(「原著者の要請によりより」ってあるけど、一体どんな要請なんだ?)、解説があったらさぞや素晴らしいものになっていることだろう。[5]村上は本当にそういうのがうまいから。それに、文学的に掘り下げる箇所が満載って感じの小説だと思うしね。

 

 この本を結局、十代の頃には読まなかったけれど、やっぱりその頃に読んだら今とは違った気持ちで読むと思うから、十代の時に読めたら読むと良いと思う。

 たいていそういうの、「読めればそれに越したことはないけど、やっぱり時期ってものがあって読めなかったんだからしょうがないし、今だから読める」というスタンスで、だから基本的に「十代で読むべき本」とかって分類好きじゃないんだけど、珍しくこの本はそのカテゴリに分類する本だ。

 でも別に後悔はしていないし、やっぱり野崎訳では読めなかったと思う。

 そういう意味で、この本が村上訳で出たという事は今の十代の子にとってはラッキーな事じゃないのかな。自分も十代の時に村上訳が出ていたら読めたと思うしね。

 何と言っても村上春樹は「たいていの本を読みやすくさせちゃう腕の持ち主」だからさ。
 それが良い事なのかどうかは正直よくわからないけれども。

 

Original: "The Catcher in the Rye", 1945

 

notes
[1] 
それでも一度は読むべきとは思っていたけれど。
[2] もちろん、フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』の事。
[3] ホールデン的な要素は推敲したものの、全体的にはかなり影響が残っている。これをさらに推敲することもできたけれど、こんな風に書かせてしまう力が、この物語にあるのだという証明のようなものかもしれないと思い、あえてこれ以上の推敲はしないことにした。

[4] サリンジャー戦記』と題された村上春樹柴田元幸の『翻訳夜話2』では、柴田氏が「Call Me Holden」としてホールデンの言葉でいわゆる解説を書いていて、非常にうまく書かれている。これを見ると、結構みんな考える事なのかなあと思ったけれど、(柴田氏はホールデンの言葉で書いた事について「ホールデンがムカつかないような書き方をしたい」から「ホールデン自身にしゃべらせ」たと言っていて、確かに自分もホールデンの言葉で書きたいという(読書中の)衝動からトライしたわけで、柴田氏と同感だったといえよう。)結果を見てみればどちらに軍配が上がったのかは一目瞭然……(そういう勝負じゃない、というよりは勝負にもならないというところだ)
[5] 村上春樹の「泣く泣く巻末から外」した本書訳者解説は、上記翻訳夜話2に収められている。

vignettes.hatenablog.jp