読書百冊意自通ズ覚書

読んだあと、何かしらの余韻を残していく物語たちを、みんなどんな風に読んでいるのだろう?The note of reading one hundred books makes you understand more clearly.

誘拐

一頁目をめくり、冒頭の「謝辞」の部分を読んで、この本がガルシア=マルケスの描く誘拐の「物語」ではなく、数々の人を苦悩と悲劇に陥れた、コロンビアで実際に起こった誘拐事件の記録である事を知った。

 私は少なからず衝撃を受けた。なぜなら、誘拐事件とは、たいてい人質は殺害されてしまう事件だと思っていたからだ。

 もちろんここに書かれる誘拐事件でも、二人の人質が不幸にも――本当に不幸なことに――亡くなっているが、生還し、そして実社会へと帰り来る者がいる。

 

 彼らが再び家族と社会の元へ帰り来ることができたのは、この誘拐事件が「ひとつの誘拐団によって、たったひとつの目的のために誘拐された事件だった (p.i-謝辞)」からだろう。それが、パブロ・エスコバルの投降のための政治的取引きであるということが、本書の中で明らかにされている。

 

 あとがきは 最後あと に読むものとしていつも最後に読むけれど、今回の「訳者あとがき」ははじめに読んだ方がより良いと思った。コロンビア人の姓名について解説があるから、マルーハ・パチョンとアルベルト・ビヤミサルが夫婦である事がすぐ理解できるし[1]エスコバルについても、予備知識があった方がより本文がスムーズに理解できると思う。

 半年間もの間、誘拐され軟禁された人間の心理状態とは如何なるものなのか、恐る恐るといった気持ちで読み始めた。

 彼らが極限状態にあるであろう事は容易に想像でき、そしてそれはまた想像を絶する体験だった。

 

 マルーハ・パチョンとベアトリス・ビヤミサルが誘拐されるシーンが静かなドラマを含んで描かれ――彼女たちが誘拐されるとわかっていてさえ、それは息を のむ出来事だった――そこから、マルーハの夫、アルベルト・ビヤミサルが彼女たちを救出すべく、全力で行動に移る。

 アルベルトが誘拐事件を追っていく中で、別地で誘拐されていたディアナ・トゥルバイ率いる取材団、『エル・ティエンポ』編集長のフランシス・サントス、そしてすでに誘拐後、殺害されていると思われていた、マリーナ・モントーヤの事件についても明らかにされてゆく。

 誘拐事件の詳細と背後関係、それにまつわる幾多の人々の様子は実に見事に描かれており、読み進める中にやがては全てが一本の線として結ばれ、とうとうパブロ・エスコバルへ辿り着くのだ。


 その様子はあまりに劇的であり、非日常的で、見事でさえある。それは誘拐された人々が、讃えられるべき勇気と尊厳をもってこの忌わしい出来事についてガルシア=マルケスに語ったからであり、また著者が優れた書き手だったことを証明しているといえよう。


 実際、ガルシア=マルケスの文章は全くをもって素晴らしく、ノン・フィクションを読んでいるのではなく、彼の書いた物語を読んでいるような気にさえなった。

 それはこの本がノン・フィクションであることを考えると、決してプラスとは言えないことなのかもしれないが、人々は生き生きと描かれていたし、事件はドラマティックだった。

 加えて事件は複雑で入り乱れているにも関わらず、それは全く予備知識のない読み手にもわかるように巧みに書かれていた。そこには生きている人間が――被害者も加害者も傍観者も――描かれていた。

 私はすっかり本書に引きこまれ、息もつけぬ集中力をもってしてひたすら読み進めた。誘拐という悲劇の本だが、正直本当に面白かった。そう、「面白かった」のだ。

 波に飲み込まれたように、ただひたすらこの事件の結末に向かって読み進めた。

 

 途中、始めからわかっていたディアナ・トゥルバイの死が突如やって来て、茫然とした。

 マリーナ・モントーヤのように、彼女もきっと射殺されるのだろう、と陰鬱な気持ちで読み進めていたのだが、無事に生還できそうな状況の中で、一体どうやって、そしてなぜディアナ・トゥルバイが死ななければならないのか、想像もつかなかった。

 そしてそれは非運としか言いようのない出来事だった。


 マルーハとパチョ・サントスが解放されるまでは、本当に長かった。

 後半、一体どうやったらこの二人を救出できるのか全く予想もつかない中で――その点からすると、誘拐された十人のうち、殺されたのは2人だけとあらかじめわかっているのはせめてもの救いだった――話は思いもよらない方向へ向かう。これが ノン・フィクションというのだから、まさしく「事実は小説より奇なり」だろう。


 結局、エルコバルは投降し、マルーハとパチョも解放されるが、その場面は本当に劇的だった。

 ガルシア=エレーロス神父の仲介によりエスコバルが投降、人質は解放され、法の下に刑に服していたエスコバルが脱走し迎えた結末は、まるで映画を見ているようだった。

 エスコバルの人生は、夢の中で生きたようなものかもしれない。


 しかし、忘れてはならないのは、やはりこれが実際に起こったノン・フィクションであり、マリーナ・モントーヤとディアナ・トゥルバイという二人の犠牲者を出した誘拐事件であったということだ。

 コロンビアの国民は――麻薬に関わる全ての者は、この事件を忘れてはならないし、またガルシア=マルケスを始めとするこの事件の被害者全てがそう思っていることだろう。


 最後、マルーハが誘拐された日に取り上げられた指輪を再びはめるシーンは、悲劇に遭遇した彼女の回復を描き出すと共に、事件の物語的結末を告げていると言えよう。

 それこそが、最後の最後にガルシア=マルケスが描き出そうとしたことなのかもしれない。
 物語(事件)は終わり、彼らは再び日常に回復していくのだと。

Original: "Noticia de un secuestro", 1996

 

notes

[1] 姓が違うので最初飲み込むのに少し時間がかかってしまった。

誘拐

誘拐