読書百冊意自通ズ覚書

読んだあと、何かしらの余韻を残していく物語たちを、みんなどんな風に読んでいるのだろう?The note of reading one hundred books makes you understand more clearly.

キッチン

思えば吉本ばななという人を、一躍有名にしたのはこの『キッチン』だった(はず)。

 吉本ばなな好きな友人に「実は今頃になって初めて吉本ばななを読んだ」という話をしたら、ばななと言えば『キッチン』だ、と言われてそんな事を思い出した。

 友人は年に何回だか、何年に一回かは必ずキッチンを読んでしまう、あれが一番好きだ、とも言っていた。

キッチン (福武文庫)

キッチン (福武文庫)

 

 

 非常にわかりやすく死のことが書かれている小説だったと思う。

 正確にいうと死について書かれている小説、という意味ではなく、小説の中で「死」が取り扱われいているということが、とてもわかりやすくはっきり書かれている、というところだろうか。

 その、小説からあからさまに読み取れる「死」が、キッチンという場所を中心にして描かれているのは、やはりキッチン=食べる=生、という、もう一つの対極を表しているからだろう。だから、この小説は厳密にいえば「生と死」の話なのだ、たぶん。

 キッチンは「満月」を続編として完結されているが、この二部があって初めて一つにまとまった話となるのだろう。

 前編「キッチン」では主に死を、後編「満月」では主に生を描き、表裏一体の「生と死」について書き上げられている。「満月」では食べる(=生)のシーンがとても多い。

 

 どうも展開が現実に基づいた非・現実的なものなので、個人的には入り込みにくく、つい冷静に読んでしまった。こんな親子(雄一とえり子)いないよなとか、こんな事起こらない(みかげがいきなりほとんど縁のない田辺家でお世話になるとか)とか。超現実的な事を現実的に見せるためにリアルに描かれているなら、もう少し入り込めたと思うのだけど……。(そういう系統の作家の影響を受けすぎているのかもしれない)

 

 ただ、すごくおいしいカツ丼を食べて、ああいう場面で衝動的にテイク・アウトのカツ丼を作ってもらって雄一のところへ持って行く、あの感じはよくわかる。

 そしてカツ丼を背負って雄一の部屋まで屋根をよじ登るシーンは、わりと好きだ。家の鍵を忘れてお風呂場の窓から中へ入ろうとして、家の裏手に回って窓をよじ登るのと同じだ。(たまにやる)

 

「ムーンライト・シャドウ」はもっと明確に「三途の川」の話だった。

 これは

「等。私はもうここにはいられない。刻々と足を進める、、、、、、、、(後略)。」(P.221 傍点引用者)

 という所へ到るまでの話だったと思うけれど、これは(こう言っていいのかわからないけれど)『ノルウェイの森』の

「おいキズキ、と僕は思った。お前をと違って、俺は生きると決めたし、(中略)俺は生きつづける、、、、、、ための代償を(後略)」(下巻 P.182-183 傍点引用者)

と同じだと思った。

 ただこのムーンライト・シャドウの方がずっと優しく、柔軟で前向きだ。それはとても女性的な感覚のように思う。そして読者もカタルシスを感じ、「手を振ってくれるありがとう。何度も、何度も手を振ってくれたこと、ありがとう」(P.222)できっと救われるのだ。

 

 この本を読んで、「生と死」について書くことがどういうことか、少しわかった気がした。

 ある一つの物語に描かれた生と死や、それにまつわる様々な事柄を、読み手は主人公などの登場人物を通じて体験し、物語の中での結末で消化(昇華)していくのだと思う。その中で、同じ体験ではなくても、自分の生活や生きている中で起こったり生まれたりすることが一緒になって――それは小説とまったく同じではなくても――消化(昇華)されるのだと。

 吉本ばななの小説というのは、それ(昇華の過程)がとてもわかりやすいのだと思う。そしてその分、スッキリ度も高いのではないだろうか。