読書百冊意自通ズ覚書

読んだあと、何かしらの余韻を残していく物語たちを、みんなどんな風に読んでいるのだろう?The note of reading one hundred books makes you understand more clearly.

半日の客 一夜の友

二人の対談が100回を超えていた(!!)ということが今回わかり、本当に驚いた。対談は何冊も読んでいるし、相当やっているだろうということは考えるまでもないけれど、100回を超えているというのはさすがに脅威の数字だろう。

 そして真に驚くべきは、回数もさることながら、この回数で保たれている内容のクオリティの高さである。要するに一言で言うと、「何者やあんたたちー!」つうことだ。うむ。

半日の客 一夜の友 (文春文庫)

半日の客 一夜の友 (文春文庫)

 

 

 今回も相変わらずスバらしく高尚な対談が、各テーマで繰り広げられている。すでに感心を通り越して呆れるほどのクオリティだが、その中でちょぴっと安心したこともあった。
 それは、本文中に丸谷が「対談のために何冊も資料を読んで準備する。一体何冊の本を読んだことか…」というようなことを言っている部分である。

 まずドーンとテーマがあって、パッと対談しているのだ、と長い間、漠然と想像していたのだ。それだけでこんな風に語れるなんて、この人たちの知識量は恐ろしいほどだ、マジで脳みそどーなっとんねん……と思っていた。
 そんな二人が 、実はテーマのためにちゃんと資料を読んで準備し、その結果としての対談のクオリティだったのだ!と知ってすごくホッとしたのである。
 やっぱり多少なりとも準備しているんだ、全ー部、最初から頭の中に入っていることだけじゃなかったんだァ…。ホッ。
 要するに、凡人の安堵にほかなりません。ハイ。ま、例え準備していたとしたって、その辺の人にできるような対談じゃないけれど。
 
 もう一つ印象的だったのは、二人が司馬遼太郎との対談の話題になった時、司馬遼太郎をTHE大家!として扱っていないこと。
 なぜそう思ったかというと、宮城谷昌光の『春秋の名君』[1]司馬遼太郎との思い出話が出てくるのだが、それが一度直接会って話したこと、ハガキをもらったことを生涯の宝としている、という話なのだ。宮城谷は司馬遼太郎のものすんごいファンのようで、それは読む限り、崇めていると言っても過言ではないレベルなのである。[2]
 ある一作家(宮城谷)にとってはこれほど神々しい存在である司馬遼太郎が、この丸谷山崎両名にとっては
「始めから安心して対談できる相手って二人しかいないんですよ。一人は丸谷さんで、もう一人は司馬遼太郎さん。」(p. 392)
という相手なのである。
 これは年齢の差ということもあるだろうけれど、やはり丸谷(&山崎正和)は、文学界では大御所ということなのだな[3]、としみじみ思わされた。
 
notes

[1] この本は春秋時代の名君の小伝と、作者のエッセイから成っている。

[2] 本人はそう言ったら不本意かもしれないが。

[3] 丸谷が本年(2012年)10月に帰らぬ人となり、その際、それが証明されていたように思う。