挨拶はむづかしい
挨拶に関するエッセイだと勝手に思っていたが、何のことはない、丸谷が今まで実際にしてきた挨拶集だった。
しかし、驚くくらい様々な場面で挨拶をしている。作家も丸谷くらいになると[1]、挨拶する機会も多くなるのだろう。かなり色々な人と交流があるのだな、と改めて感心した。明治あたりから始まった(のではないかと思われる)今はなき近代日本文学のサロン文化、というようなものを感じさせられる。
内容そのものは、 特別面白いというものでもなかった。(失礼)きっと「挨拶の名手」は世の中にもっといることだろう。[2]もっとも、字で読んでいるだけで、その場の雰囲気とか語り口調はわからないので、挨拶としてトータルでどんなものか判断できないが。
面白かった部分を少し。
「民話の主人公のやうな」
菊地武一先生をしのぶ会での挨拶
菊池氏の人柄を丸谷が語っているのだが、菊池先生の人物像が面白い。
曰く、「のべつ幕なし(講義に)遅れて来るんですよ。一時間も、二時間も遅れる。(中略)講義だけぢやなくて、たいていの会議もさうでしたね。教授会だらうと、研究室の会議だらうと遅れて来る。終わりごろに出て来る。そして、今まで決つたことを引つくり返すんです」(p. 26~27)
もちろん教授はみんなから好かれているわけだが、それにしても昔はのんきなもんだったなァ、としみじみ感じた。今の時代に同じようなことをしたら、どんなに高名な大学教授でも問題にされることだろう。そう思うと、ホントいろいろ現代は狭くなっちゃったものである。
「五月の風のやうな」
村上春樹『風の歌を聴け』群像新人賞贈呈式での祝辞
個人的に村上春樹には思い入れがあるので、興味深く読んだ。
「葡萄酒に当たり年があるように」
読売文学賞贈呈式での祝辞
中でも、これが一番面白かった。途中、木下順二の『ぜんぶ馬の話』の評が出てくるのだが、それがよかった。
「たとへば真中へんに『大日本落馬史』といふ戯文があつて、馬から落ちる話ばかりで日本歴史を縦断しています。源頼朝も馬から落ちる。芭蕉も落ちる。会津の殿様、京都守護職の松平容保も落ちる。乃木大将も落ちて、人事不省になる。」(p. 170)
これを読んで、この本、実に面白そうだと思った。何といっても着眼点がいい。シャレがきいている。
この話には個人的後日談があって、あんまり面白いので、私はこのような本があるらしい、面白かろう、と家族に話した。すると家族は、
「昔の人は短足だったから、みんな落馬した。昔の日本の馬は今の西洋馬と違って、背も低く足も短かっただろうが、昔の日本人は足が短いもので、それでもみんな落馬した」
などと言う。
短足だから落馬した。言われてみれば確かにそうなのかもしれないが、そんな返答をされるとは思いもよらず、ちょっと可笑しい気がした。そこで、この話を知人にメールしてみた。
すると、馬好きの知人に次のように教えられた。以下そのサマリー。
「日本のもののふには、気性の荒い馬ほど珍重されていた。そのものが戦闘力を持った、猛獣のような馬を持つことが武士のステータスであった。体格は人の背丈より少し高いくらいで、昔の人がまたがっても足は地面からさほど離れなかったらしい。しかしながら、重心が低く高速移動して突撃する…そりゃ落馬も多くなるわけだ。
自分が乗りこなせないくらい、気性の荒い馬猛獣(馬)を所有している、というのが、武士の矜恃だったのだ」
なるほど、この説得力。短足だからじゃないではないか。
落馬の原因はともかく、「大日本落馬史」なんてエッセイを書いた木下順二は祝辞に値するし、取り上げた丸谷もさすが。
最初に書いたように、特段優れた挨拶が載っている、とも言えないけれど、もし自分が何か頼まれたら、この本を開いて参考にするだろう、と思う。
notes
[1] 一般人には知られていないが。
[2] 一般的には、丸谷は挨拶の名手として知られているが。