ヴィヨンの妻
勝手に『ヴィヨンの妻』は中編小説だと思っていた。なぜなら、文庫の厚さが中編くらいだったから。短編だったのか。
太宰は短編の作家なのだと、ここまできてやっと納得した。(あんまり考えていなかった)おまけに、その短編というのが、同じような話――つまり、主人公が自分に似ている(自伝である)という——の繰り返しだ。
もちろん、解説で亀井勝一郎[1]のいうように、自伝的な中にとても巧妙に虚構を折り混ぜているわけで、全てが太宰本人の事実的出来事ではない。同じような話が繰り返される短編をたくさん読んでいると、太宰の虚構、アフォリズムの巧さというのがよくわかる。
だいたい、例えこれらの小説がほぼ自分の体験をそのまま書いているとして、これだけのバージョンで書けるだろうか?素直に体験を書く前提で何通りかのバージョンに分けて書いているにしても、このバリエーション(と、一言で言えるものでもないが)はすごい。それなのに、題材にはしていても100%体験を書いているわけではなく、始めから話のある部分とか、何分の一とかは作られているわけだ。これはすごい。
この本に収められている短編は晩年の作品である。
なるほどそれらしく、さびれた苦悩に満ちていて、前進するための苦しみ、というのものは影を潜めている。これが「富嶽百景」くらいだと、同じようにうじうじぐちゃぐちゃしていても、富士に時々素直になってみたり、なってみようとしたりしている。
で、これくらい先のない苦悩は、一見それまでの話と同じようでいて、やはり生気に欠けるものに思える。つまり、いまいち面白くない。 『走れメロス』[2]で、太宰のイメージが変わった、と書いたけれど、変わる前に(つまり『斜陽』や『人間失格』だけを読んでいた時の)戻ってしまったような感覚を覚える。やはり同時期の作品だからなのだろうか。
そこで、太宰の晩年の二大長編は、心より頭が描かれている、と書いたけれど、こうして読み重ねていくと、そうでもない気がしてくる。ああなるべくしてなった、というか、書くべくして成った作品、という感じだ。
もうこの辺の、死ぬ近くの作品になると死の臭いが漂いはじめている、と亀井勝一郎は評するが(もう少しソフィスティケイトされた表現だった[3])、生気に欠ける行き詰まり――というのは、この死に向かう、向かわざるをえない太宰の放つ死臭ゆえなのだろう。
亀井勝一郎の、太宰がこんなに苦しんだのは、彼の倫理観ゆえだろう、太宰は倫理的すぎてそれは彼を苦しめ続けたのだ、というような解説に、まことに納得させられた。もう成程本当にその通りですねと心の中で亀井勝一郎に頷き、その仕事のスマートさを改めて知った。
それにしても、太宰はいい評論家が色々書いてくれている。
『ヴィヨンの妻』
親友交歓 7
トカトントン 33
父 55
母 71
ヴィヨンの妻 87
おさん 123
家庭の幸福 143 桜桃 159
notes
[1] 相変わらず太宰の評論はいい評論家が書いている。作品ゆえか。 余談だけれど、亀井勝一郎との出会いは、授業でやった「節度の美学」という亀井の評論だった。その時は完全にスルーしていたのだが、この解説を読んでいい評論家だ、と思い直した。文章も整然として読みやすいし、何よりこの短い文章、限られたスペースの中で実にスマートに、読んでいる人をなるほどと思わせる理論が展開されている。スマートといふのがじつに当てはまる評論だ。対して秀逸、なのはやはり丸谷才一と思ふ。
[2] 詳しくは 覚書『走れメロス』