晩年
総じて面白かった。
前回[1]の「富嶽百景」「東京八景」「帰去来」「故郷」と併せて、この「思い出」でさらに太宰のことがよくわかることができた。
「魚服記」もよかった。しかしキリシタンものはユダと併せて苦手なので、大河ドラマ風に想像して読んだ。そういう、宣教師が出るやつがあった記憶が…あの、「今宵はここまでにいたしとうございます」で終わるやつ。[2]
「ロマネスク」が一番よかった。こういう日本の昔話的設定は元来苦手なのだけど、にも関わらずこれは面白かった。
鍬形太郎が仙術を身につける、というのが面白い。解説の饗庭孝男氏は「このまとめ役が嘘の三郎であることが、彼が三つの物語の中でもっとも生彩を放って描かれている」と述べているけれど、個人的に三郎はどうか、と思う。
確かに作品を通して云々……というのはこの嘘の三郎かもしれないけど、それだけに現実に引き戻されてしまい、お伽噺として読み切れない。その点、仙術太郎のように突出して「ココ!」という話のポイントはないながらも、トータルで物語に引きつけられたのは喧嘩次郎兵衛である。この話は、引きつけられていることに終わるまで気づかなかったけれど、振り返ってみると面白かった。
十四編の小説を読んで、十一編目の「ロマネスク」を読んでいて思うようになってきたのは——それは面白いと感じたから思い始めたのだろうけど——この太宰という人は、「文章を書く」才能がすごいということ。内容云々の前に、日本語の流れるようなつづられ方に、惚れ惚れしてしまう。ボキャブラリーが豊富で、文章そのものが恐ろしく上手い。
思い返してみるに、かつてこんな印象を受けた作家はいない。[3]おそらく、太宰の作品はやっぱり内容で評価され、論じられるけど(それが『人間失格』etc...…になれば余計に)この人は自分の中の何かを表現せずにはいられず、その方法が小説・物語だった、というのではなくて、ただ単に、ひたすら「文章を書くこと」「日本語をつづること」が好きだったのだと思う。そこに内容や思想などかがなかったとしても。
そういう文章だと感じだ。これは誰が、どんなにえらくてすごい評論家が何と言おうが、絶対に当たっている。
だってそうなんです。単なる事実なんです。[4]
と、強く思った。
『晩年』
葉 7
思い出 25
魚服記 68
列車 78
地球図 83
猿ヶ島 94
雀こ 105
猿面冠者 111
逆行 132
彼は昔の彼ならず 150
ロマネスク 195
玩具 222
陰火 230
めくら草紙 252
notes
[1]覚書『走れメロス』のこと。
[2] 1988年にNHKで放送された大河ドラマ「武田信玄」。そんな昔だったのか、という驚きが。
[3] これについてはちょっと考えてみたけれど、三島も村上も芥川も漱石も鴎外も谷崎も安部君も違った。他にもたくさん作家はいるので、断言できないが。
[4] この覚書を書いた時は強くそう思っていたので、こんな風に書いているが、今でもそう思うかというと正直ちょっと確信が持てない。しかし、そう感じたということは事実なので、あえて修正せず、そのまま記載する。(2007)
後に奥野健男の『太宰治』論を読んだが(覚書)、奥野健男はそこで太宰のことを「言葉の魔術師」と表しており、この感想もあながち外れていなかったと思わされた。(2013)