読書百冊意自通ズ覚書

読んだあと、何かしらの余韻を残していく物語たちを、みんなどんな風に読んでいるのだろう?The note of reading one hundred books makes you understand more clearly.

ウナギと山芋

どうやら本書『ウナギと山芋』は、あとがきを読んでわかったのだが、『遊び時間』[1]の3、ということらしい。なぁんだ、そういうことなのか、とホッとしてしまった。前作『遊び時間2』は非常に面白かったから、そういう雰囲気なんだろうと予測ができて、この結構ぶ厚い本も楽しく読めそうな展望が見えたからだ。

 基本的にあとがきは最後に読むけれど、苦手な俳句から始まる本書の完読に一抹の不安を抱き、最後はどなっているのだろう、とあとがきを見てしまった。

 結果的にあとがきを先に読む最大のデメリット、いわゆるネタバレに後悔することもなく(推理や探偵ものじゃないんだから、そういうこともないか) 先行き明るく読み進めることができた。あとがきを先に読むことは基本的には邪道だと思うが[2]、何事にも例外といふものがあつて、これはその最たるものの一つであらう。

ウナギと山芋 (中公文庫)

ウナギと山芋 (中公文庫)

 

 さて、苦手な俳句のところはすっとばして……書評は、やはりすごくよかった。丸谷は本当に書評が上手い。

 中ではイギリスの書評について書かれており、なぜ丸谷の書評がこんなにも上手なのかわかったような気がした。というか、それ以前に、日本は書評というものが全く発達していないのだという事も初めて知った。

 

 本書によると、書評がとても洗練され、発達しているのはイギリスだそうで、丸谷はその書評先進国のイギリス人の書く面白い書評を、自分なりにチョイスして[3]よく読んでいるという。そこで良い書評の何たるかを身につけて、それを自ら活かしているから、丸谷の書評は面白いのだろう。書評って奥が深い。

 そして丸谷の書評レベルがイギリスの一般的な書評レベルなら、日本は相当ヘタレだと思う。だって書評が「面白い」ものだなんて、思ってもみなかった。丸谷の書評に出会うまで、書評というのは、書いている本のことが紹介されているだけの、読み物としての面白味なんてないものだった。

 それはまあ、紹介している本にクローズアップするのがいわば書評の本分なわけで、書評そのものに面白さは追求されるべきものではないのだろうけれど。しかし、面白い書評がある、なんて考えてもみなかったわけで、この事からも、日本の書評の後進ぶりがわかろうというもの。[4]

 

 日本語論のことも相変わらず面白い。本書には、なぜ丸谷が日本語について語り始めたのか?それをして何を目指しているのか?[5]ということも書かれている。教科書の問題について述べているのは初めて読んだ。『日本語のために』とか、『桜もさよならも日本語』[6]も読もうと思わされる。

 そしてまた、明治憲法の悪文加減(!)、日本語は散文が確立していない、ということがよくわかった。

 

 書評が面白くないと前述したけれど、それは散文が確立していないというのもあるのだと思う。その証拠に、散文とはなんぞや?(公式に使用できる散文)と問われて、答えられないのだ。これは自分のレベルの低さの問題も大いにあるけれど、良い散文や論証文を書く人がいない(=触れる機会が少ない)というのも大きいのではないか。なにせ、小林秀雄でさえ論理的じゃないのだ。[7]あえて書くけれど、小林秀雄は評論家である。それも、今、日本で最高の権威といわれている評論家だ。なのに散文として確立されていない(丸谷談)という。

 

 卒業論文を書くのにそれなりに論文は読んだけれど、思い返せば基本的にあんまり面白くなかった。中には面白いものもあるけれど、それは内容が面白いのであって、文章込みで面白いわけじゃない。というより、丸谷の論点からみれば、もう文章はわかりにくいとうことになる。

 評論ってそんなものだと思っていた けれど、ところがどっこい、外国の評論にはどうやら書評と同じく面白いものもあるらしい。それというのも、散文が確立しているからだ。

 

 と、自分には全く考えもつかない側面からの話なわけだけれど、これは大きな発見!と思わされた。さすが丸谷だ。散文の確立されているイギリスの文章に(あえて文学とは言わない)慣れ親しんでいる[8]から、丸谷の本は題材は難しいのにこんなにわかりやすいのだろう。

 それに引き換え、いくら散文が確立していないからとはいえ、この文章のなんとわかりくにくいことか。

 散文って…何なのだろう…(遠い目)

 

notes

[1] 『遊び時間』はこれまで1、2巻が出ており、エッセイや書評などがまとまった本。

[2] やはり「あとがき」というだけあって、作者は本文の「あと」も書いているわけで、そこはやはり本文が終わった「あと」に読むのが正統だろうと思ふ。作者だつて本文の「あと」の頭で書いてゐるのだし。

[3] というのも、丸谷曰く書評専門誌は面白くない、それより "New States Man"とか"Sunday Times", "Observer"などの書評欄が良い、と言っている。

[4] それとも、考えてもみなかったのは私だけなのか。

[5] それは大岡昇平氏との往復書簡にも書かれていた。

[6] どちらも丸谷才一の著書。後日読み、覚書している。

 

 [7] 丸谷によると…(不勉強ゆえ私はよく知らない…)

[8] 氏の前身は英語教師。専門はJ. ジョイス。