読書百冊意自通ズ覚書

読んだあと、何かしらの余韻を残していく物語たちを、みんなどんな風に読んでいるのだろう?The note of reading one hundred books makes you understand more clearly.

英語を子どもに教えるな

『英語を子どもに教えるな』というタイトルに興味を引かれ、軽い気持ち(流し読みすればいいやという)で購入した。

 英語(に限らず語学の)学習得には、幼い時期がより好ましいハズだという一般的な認識を持っていたし、その時「今更(今頃)語学の勉強などしてどうする」と言われた事もあって、「子どもに教えるな、、、、」という主張の根拠が知りたかったのだ。

 

 けれども、著者がアメリカで日本人駐在員の子どもたちに日本語を教える中で出会った、母国語を失う子ども、セミリンガル化してしまう子どもの話にかなりの衝撃を受け、即座に引き込まれていった。

 特に事例として挙げられていた康平君[1]などの状況を見ると、単なる読者の私でさえ空恐ろしく、気の毒になるほどだった。

 

 母国語が確立していない時期に外国語(英語)の世界に飛び込まなくてはならない幼児に課せられるリスクの高さを、私は初めて知った。と同時に、母国語が堪能な事が、外国語の高い能力を身につけるためには不可欠である事も本書によってよくわかった。

 それはすなわち、外国語での、=国際社会内でのコミュニケーションにおいては、自己の意見を相手にわかるように論理的かつ明確に伝える事が最も重要な事であり、人は言語で思考する[2]から、その人の持つ言語(母国語)能力にコミュニケーション自体が大きく左右されるということになるのだ。

 

 大切なことは

「私がアメリカにいる時に(中略)単に「fluent」であることに何の価値もないと言われたことがある。

英米人以外の人が英語を話す時に、期待されていることは、『fluent』に話すことではなくて、『informative』な内容を語ってくれるかどうかである」(p.108)

 という ことであり、本書の中では各章内のタイトルにもあるように、

「ネイティブのようになる必要があるのか?」(第3章-5 p.106)、

「国際社会を生き抜くために「ぺらぺら」でなければだめか?」(第3章-6 p.108)

 という、シンプルだが、「日本人が英語を使う意味」を根本的に捕らえて、投げかけられていると思う。

 

 母国語ではない外国語を習得する目的は、 その言語が母国語である人のように使いこなす、、、、、ことにあるのではなく、母国語の異なる者同士が共通の言語で、、、、、、話すことができることによって互いにコミュニケーションを計ることができること、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、にある、というのは、至極あたり前のことなのだ。

 ただ、多くの人々がその「英語を話せるようようになる目的」が、目の前の様々な出来事や情報に惑わされて、見えなくなってしまっているのが現状だろう。

 こういった国際的な側面から――英語を取得するのに国際性を排除するのは不可能な事と言えるが――英語を学ぶということについては、第5章「外国人との「対決」が育む国際感覚」によくまとめられてある。

 

 本書を読み進めて行くうちに、母国語習得し、自由に使いこなし、表現できることの重要性を改めて感じた。だから著者は極端な表現だけれども『英語を子どもに教えるな』と、母国語が完全に習得・確立できていない子どもの段階で英語(外国語)を教えるリスク・難しさについて警鐘を鳴らしているのではないだろうか。

 

 ここに明記しておくけれど、著者は決して「子どもに英語を教えるな」「バイリンガルに育てるのは無理」とは言っていない。

 ただ、その難しさや問題点を述べ、それ相応の覚悟で臨まねば我が子をセミリンガルにしてしまえさえすると警告しているのだ。

 また、早期に英語に触れさせる、、、、、ことでどれほど後の語学力にプラスになるかなど、現在の教育現場事情を取り上げて検証されており、この点もとても参考になる。

 事実、私は小学校時代に週に一度、英語の授業を受けていたけれど、定型のあいさつ――Good morning, Ms. Suzuki. I'm fine, thank you. とか、Simon says gameなどのゲームをして遊んでいただけで、中学校に入ってからの本格的な英語学習にプラスになったかと言うと、効果はほぼゼロだったと思う。

 

 本書は、子どもに英語(外国語)を教えるということはどういうことなのか、実にわかりやすく――それは 1. 理論的であり 2. 説明がわかりやすく 3. 実例なども挙げて 書かれているからだ――丁寧に書かれている。

 もちろんリスクや問題点が多く挙げられているが、最後に「英語を学び、教える時の心構え(中略)必要なポイン トがまとめ」(p.196)られている。

 著者はただ単に子どもの外国語学習を否定しているのではなく、正しく状況を捉え、前向きに取り組んでいくためには どうすればいいのか?真摯に考えていることが伺える。

 

 また、ここへ来て真面目に英語学習に取り組み、アレコレ試行錯誤している中にある自分にとって、本書で子どもに英語を教える問題点を知る中で、逆説的に、成人した自分が語学を習得することについて見つめ、大いに勇気づけられるところがあった。

 子どもに比べれば、すでに母国語をマスターしているし、論理的に物事を考え、明確な表現で相手に伝達するコミュニケーションを身につけている(少なくとも子どもに比べれば)し、国際社会についての知識もあり、また英語そのものの文法などもすでに学習済みなのだ。

 もちろん、著者も言っているようにネイティブのような発音や、聞き取り能力は子どもに比べれば比較にならないほど劣るだろう。けれど、先にも述べたように、外国語を使う時に、ネイティブ並みのしゃべりは必要ない、、、、、、、、、、、、、、、、、のだ。なぜなら、外国語はコミュニケーションツール、、、なのだから。「むしろ、大人になってから高度な英語力を身につけた人の例はいくらでも挙げることができる」(p.74)というのも頷けるといえよう。

 

 終章では、子どもの英語学習のポイントが書かれているが、その中で大人の学習者にも参考になる箇所があったので、最後に取り上げてまとめにしたいと思う。

 

「年をとったせいで、英語を習得する能力が消えることはない。たとえ成人した後であっても、 1. 集中して英語を学習する時間を確保すること 2. 失敗や間違いを恥ずかしがらないこと 3. ひたすら英語を聞いて英語の音の慣れること

さえできれば、高度な英語力をマスターすることは可能なのである。」(p.202)

 

 また、こんなことも書かれている。

「英語を話せないと思い込んでいる人で、とりあえず一年間、一日も欠かさず練習したという人はおそらくいないだろう。結局(中略)学習を中断しているはずだ。

 あなたが英語を話せないのは 1. 必要に迫られていない 2. 学習時間が少なすぎる からだ。(中略)「聞く」訓練、「話す」訓練はこれまでの学校教育ではしていないのだから、できなくて当然。もう遅すぎるとあきらめてはいけない」(p.203)  

 

 “英語力は一生かけて身につけるもの”なのだ。

 

notes

[1] 「漢字を覚えず、ひらがな、カタカナも怪しくなり、やがて英単語まじりの会話がやっと」(中略)「作文は日本語だけでなく英語でも苦手で、何を言いたいのかさっぱりわからない文しか書けません」(p.79, 80) とあるように、幼児期に二つの言語を習得させることはひじょうに難しいことなのだ、と初めて知った。知らない人が多いことなのではないだろうか?

[2] 尊敬する丸谷才一氏も以前新聞のコラムにそのように書いていた。

英語を子どもに教えるな (中公新書ラクレ)

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