読書百冊意自通ズ覚書

読んだあと、何かしらの余韻を残していく物語たちを、みんなどんな風に読んでいるのだろう?The note of reading one hundred books makes you understand more clearly.

十二の遍歴の物語

十二の短編の目次を読む前に見て、ガルシア=マルケスはまだ二冊目だけれど、好きなタイプの作家だと悟った。好感が持てる[1]タ イトルの羅列。タイトルに惹かれたまま、本文に入る。

 始めに持った期待感、物語的世界(つまりガルシア=マルケスワールド)はへの予想は、とても良い意味で裏切られることがないまま、12の物語は終了した。

 読み終えた後も削られることのなかった好感に改めて思う、ガルシア=マルケスは好きなタイプの作家だと。それからふと、自分の好きな作家を思い浮かべて、ガルシア=マルケスと彼らにちゃんと共通点があることにも気がついた。要するに、あれこれ考えるまでもなく、ガルシア=マルケスは好みの作家だったのだ。

 

 12の物語を通して思うのは、このラテン・アメリカの作家はどうしようもなくヨーロッパを含んでいるという事だ。それはこの12の物語の舞台が、それぞれ「二十年前にヨーロッパで生きたことはどれも本当ではないのかもしれない」(p.11)とガルシア=マルケス本人が緒言で述べているように、二十年前の ヨーロッパの亡霊なのだから、当たり前と言えるのだろう。

 訳者のあとがきにもあるように、ガルシア=マルケスはコロンビアの作家と言われているけれども、 その殆どはコロンビアには住まず、「ヨーロッパのラテン・アメリカ人」として過ごして来たわけで、それがすごく大きな要因となっている事は明らかだ。ラテン・アメリカが舞台の「マコンド」でさえ、ある主ヨーロッパ的なスパイスが効いているように思える。

 つまりそれが、ガルシア=マルケスが「ヨーロッパのラ テン・アメリカ人」と言われる所以なのだ。

十二の遍歴の物語 (新潮・現代世界の文学)

十二の遍歴の物語 (新潮・現代世界の文学)

 

 12の物語について1つ1つ書いているといくらでも時間がかかってしまうので、以下できるだけ手短にまとめ的に書き出してみる。

 

「大統領閣下、よいお旅を」は、オメーロ・レイの妻サラサ・デイヴィスが最後の方で「あの哀れなじじい」「あんなひどい人生なんて!」(p.47)という所がすごく好きだ。この一言に救われる気さえする。
 大統領がマルセイユへ行ってしまった後、サラサが「あの人は何があっても死なないわ。」(p.49)と言うので、もしや死んでしまうのかも…と思ったけ れど、節制はやめて、体調は良くも悪くもなく、残りの人生を満喫しているらしい事が最後にハッキリと書かれていたので、私はすっかり気分が良くなった。

 「聖女」で、マルガリート・ドゥアルテこそ聖人であったのだ、という締めくくりは、如何にも短編小説的だ。

  「眠れる美女の飛行」で川端の小説が出てくるけれど、まず出て来た事に驚いた。まあ、川端だってノーベル賞作家なんだから当たり前かもしれないけれど、外国の作家が日本の作家・小説を取り上げているのを初めて読んだ。そして、ガルシア=マルケス、日本の作家まで読んでいるなんてさすが!と感心した。尤も今は村上春樹なんか外国でもよく読まれているだろう、翻訳も多いし。でも村上を読むのと川端を読むのとでは全然違う。と思う。村上あたりは文章が外国的だから、外国人でもすごく読み易いはずだ。
 この川端についての記述を読んでいると、ガルシア=マルケスはひじょうにノーマルに日本の日本らしさ、、、 みたいなものを、掴んでいるなという感じがする。「サムライ」とか「ニンジャ」とか「スシ」「テンプラ」の日本ではなく。そいうのってなんか日本だけど、日本らしさとか雰囲気みたいなものとは違うじゃないか。ガルシア=マルケスが「日本」の風情みたいなものを、外国人なりにうまくとらえているなァと思ったのは、川端の小説を「美しい」と言っているところと、飛行機の隣の席の美女をただ見つめて、主人公が「おれがこの年になって日本の老人になる、、、、、、、、だなんて」(p.76傍点引用者)と言っているところである。

 読んでいる間中、恐いな、読んでいく毎にこわ~くなってきて、こうなったら恐くてやだな~と思っているような展開になっていった、この12の短編のうちで一番恐かった「電話をかけに来ただけなの」。
 マリアが電話をかけられない、、、、、、――本当に電話をかけに来ただけ、、なのに!――所から、恐怖を感じた。でも、そのうちマリアは正常だという事にみんな気がつくだろうという希望を持って、怖がりながらも先へ進んだのだ。しかしサトゥルノはやっと登場したと思ったら、何の役にも立たないし。
 結局マリアに救いの手は差し伸べられないのだけれど、それにしたって人間の思い込みというのは本当に恐ろしい。マリアが精神病だと思えば、何を言っても、どんなに正常と思われる事を言っても「病人のたわ言」としか受け取ってもらえないのだ。ある種のレッテルを張られる事、そして思い込みとは本当に恐ろしい。

 このお話はあくまでマリアは正気だという点から書かれているので、読んでいて恐いと思えるけれども、もし作者が「間違えられたマリア」というものを常に提示してくれなければ、私は次第にマリアがやはりおかしいのでは?と思ってしまいそうだ。自分以外の全ての人が反対側を向いたら、どんなに自分が正しくても、自分の方向は間違っているのではないだろうか?と思ってしまうのではないか。それも恐い。
 マリアはよく発狂しなかったものだ。
 発狂したら、「頭のおかしい人」で終わってしまうのだろうけれど……。

 再びマリア――マリア・ドス・プラゼーレスが見た、もうじき死ぬというお告げの夢とはどんな夢だったのだろうか。「死ぬっていうんじゃなかったの ね!」(p.135)という事は、読み違えうる内容だったということだろうけれども、一体それではどんな夢だったんだ?
 それと、「死ぬっていうわけじゃな」いのなら、どんな訳なのか?この若い男がマリアの自宅に上がるところを読んでも、よくわからない。
 マリアの年が七十九歳という事に、とらわれ過ぎているのだろうか?

 個人的には「ミセズ・フォーブスの幸福な夏」が一番良かった。主人公の男の子の語り口が好きなのかもしれない。弟がミセズ・フォーブスを「殺してやる」 と言い、主人公が「首を切り落とされるぞ」と言うと、「シチリアにギロチンはない」と答えるシーン(p.172)がわりに好きで、たんたんとしている弟の直線的な感じもよい。
 ミセズ・フォーブスの作る、後にも先にも食べる事ができなかったくらいおいしいプディングというものは実に興味深い。想像力を掻き立てられる。基本的にTVて紹介されるような店に興味はないタイプだが、ミセズ・フォーブスの絶品プディングも、まさにこういった類いの「舌がとろけちゃいそうな」くらいおいしいスイーツなのだろう。その舌鼓と、おいしそう な見た目(しかし、どうしてああもプディングとかタルトとかっていうお菓子はおいしそうな見た目をしているんだろう?)を想像すると、この主人公たちはなんと好運な事か!と思ってしまう。作中に出てくるクリーム・パイとかヴァニラ・タルトとかプラム・ケーキとかも実にそそる。
 しかし、ミセズ・フォーブスの死は突然で、ちょっとした謎に包まれいる。
 なぜ、そして誰にミセズ・フォーブスは殺されたのか?
 だが、その解答は必要ではないのだ。そこが、推理小説と違うところなのである。[2]


「ちょっと刺されただけ」の新婦ネーナ・ダコンテの出血が全く止まらず、おそらく死に至るであろう事はすぐに予想できたけれど、予想以上に幸せな新郎ビ リー・サンチェスがハッピーで、無心すぎて、ちょっと切ない。

 ガルシア=マルケスはネーナ・ダコンテの死については特にそれで読者に衝撃を与えようとした 訳ではなく、この哀れなビリー・サンチェスを描こうとしたのだと思いたい。ネーナ・ダコンテの死は火を見るより明らか、物語のスタート部分でわかってしまうから。
 パリに10年ぶりに降った大雪が、亡き新婦ネーナ・ダコンテを鎮魂し、ビリー・サンチェスを包みこんでいる。


Original: "Doce Cuentos Peregrinos", 1992

『十二の遍歴の物語』

緒言──なぜ十二なのか、なぜ遍歴なのか 5
大統領閣下、よいお旅を 15
聖 女 51
眠れる美女の飛行 70
私の夢、貸します 79
「電話をかけに来ただけなの」 89
八月の亡霊 111
悦楽のマリア 116
毒を盛られた十七人のイギリス人 136
トラモンターナ 153
ミセズ・フォーブスの幸福な夏 161
光は氷のよう 176
雪の上に落ちたお前の血の跡 184

notes
[1] 
一般的にではなく――どちらかと言うと一般的には「好感」を持つタイプではないと言えるかも―― 自分的、、、 にということ。
[2] 推理小説でこんな事したら大ヒンシュク。