読書百冊意自通ズ覚書

読んだあと、何かしらの余韻を残していく物語たちを、みんなどんな風に読んでいるのだろう?The note of reading one hundred books makes you understand more clearly.

翻訳夜話

基本的には翻訳をやりたい人(又はしている人)向けの本だ[1]ったと思う。

 もちろん、翻訳する、、わけではなくても、興味があったり、翻訳小説をよく読んだりする人であれば興味深く読める内容だろう。

 このように実際翻訳を――特に小説の、ということになるだろうけれど――している二人の対談を読んで、英語力や日本語力もさることながら、いかに、、、その作品(及び作家)を読み込んでいけるか、深く作品に入り込んでいけるか――という事が最大のポイントなのだ、ということが良くわかった。村上がしきりに「テキストは厳選する」と言っているのはそういう事なのだろう[2]

 それはおそらく、読んで面白いとか、好きな作家だかとか言うのもちょっと違う。でもこの辺は本好きな人にはむしろ納得、ではないだろうか。

翻訳夜話 (文春新書)

翻訳夜話 (文春新書)

 

 それと、村上春樹も柴田氏も、あくまで「テキストに忠実」である事を不文律として「テキストが全て」と言っている(p.72辺り)のは、読み手としては嬉しいことだ。しかしそれだけに、やはり訳者が「どう」テキストを読み込んでいるか――それには正しいとか間違っているとかは存在しない――が本当に重要なのだと言えよう。


 以前、チャンドラーの覚書をした時[3]、訳者が違うだけでマーロウが全然、、違う人に見えると書いたけれど、どうもチャンドラーは――マーロウは――特に差異が顕著らしい。

「翻訳を読んでいて困るなあと思うのはやはりチャンドラーですね。(中略)チャンドラーって訳す人によってカラーが全然違うんですよ、清水(俊二)さんの訳と田中さんの訳と。同じマーロウだとは思えない、、、、、、、、、、、、、ところがある。」(p.231傍点引用者)

 

 と村上も言っているし、相当訳者に左右されるらしい。

 そういう風になると、やっぱりテキスト(原文)を読みたいなあというか、読んでこそ、なんて思ってしまうものだ。『ライ麦畑でつかまえて』も結局、野崎孝訳では読めなかったし[4]……。

 ちなみにこのフォーラム2は1999年に行われていて、その当時はまだ版権の問題等で『ライ麦畑でつかまえて』は訳本として村上春樹訳は出せない状況だったよう[5]である。(p.94)

 

 ちょっとしたオマケの試み的「海彦山彦」では、村上・柴田双方のカーヴァーとオースターが読めて、面白かった。

 両方ペラペラめくって比べて読んだりすると、確かに同じ事が書いてあるのに違う文章なんだから、不思議なものだ。


 カーヴァーはやっぱり村上で、オースターは柴田訳、という感じだったかというと、そうでもない。

 どっちも良いとも言えるけど、そちらかというと二人をミックスした方がいいのでは?どっちも良くてどっちもちょっと足りない、そんな感じで、二人のいいところをつまんで一つにしたらいいな、などと個人的には思った。

 二人とも自分の文体はあくまで捨てて、トランスレートに徹する、と言っているけれど、特に村上春樹はすごく「ぽさ」が出てしまっている。本人はそんなつもりは全くないようなので、それはそれである意味ちょっとし た驚きだ。

 

 また、すごく面白いというか、興味深いな~と思ったのは、文章のリズム(ビート)の話。

「文章にとっていちばん大事なのは、たぶんリズム」(p.66)、 「(文章のビートというのは)目で見るリズムなんです。目で追っているリズム。」(p.212)

 と村上は言っているが、それは日々文章を読み、又は書いていて自分も感じるところだ。

 ここで「リズム」と言われて初めて具体的に気づいた訳だけれど、リズムの良い文章というのは案外少ないのではないか。そして「村上の文章は読み易い」と言ってきたけれど、その理由のひとつはこの「リズム」だったのだ。

 

 ちなみに二つ目の理由はこれかも?と思ったのは、村上の翻訳は

「枠としては英語の発想をもってきて、その中に入れる表現はすごくイディオマティックな日本語」(p.221)

 となっていることだ。これは翻訳に限らず小説も同様と言えよう。こういう文章は非常にロジカルで、読み易いのだと思う。

 以前丸谷が、現代の日本語は小説を主に進んできたので、公文書を書くようなロジカルな表現法というのがほとんど確立されていないゆえに、憲法なんかの文章はめちゃくちゃわかりにくい、と言っていて[6]、その外枠を、英語というシステマティックな言語体系で作って、中身はイディオマティックな日本語、という文章があるとしたら、それは読み易い(というかわかり易い)んじゃないか?と突如丸谷の日本語論を思い出して、ミョーに納得した。

 しかしこうしてみると実に勉強になる事が多い一冊だった。

 村上にしろ柴田氏にしろ本当に博識だし、頭脳明晰だし、すごい仕事をしている[7]ものだとしみじみ感じた。
 すごく面白かったし、発見もたくさんあるので、ぜひぜひ「2」も読みたい。
 しかしその前に、巻末に付録の「Collectors by Reimond Carver」と「Auggie Wren's Christmas Story by Paul Auster」を訳してみようと思うのはいささか無謀というものか……。

 

notes
[1] 
1人称を「僕」にするか「私」にするかetc.にするかでかなりみんな迷っているところなんて実際の翻訳者の悩みと言えよう。
[2] 村上「やっぱり自分の中に呼吸……」(p.196)
[3] 覚書『大いなる眠り』
[4] 本書の中で村上は「野崎孝さんの有名な訳がありまして、僕もそれを読んで、すごくおもしろかった」(p.93)と言っている。私は村上訳で完読した。
[5] 『翻訳夜話2』ではその辺りの事が語られているらしい。

[6] 覚書『ウナギと山芋』の英語評の部分。

[7] (訳する)テキストは選ぶと2人とも言っているが、選択できるところがすでに普通の翻訳家と違うと思われる。普通はそうそう選択肢はないのじゃないか。