読書百冊意自通ズ覚書

読んだあと、何かしらの余韻を残していく物語たちを、みんなどんな風に読んでいるのだろう?The note of reading one hundred books makes you understand more clearly.

『他人の顔』作品論 ─ 砂の城 ─

主人公である「ぼく」は、高分子化学研究所に勤める中年の男で、実験中、薬品を浴びて蛭の塊のようなケロイド状の顔になってしまう。
 そして、顔を「喪失」してしまったぼくは、人々の対応の変化にとまどう。

 自分は変わっていない。ただ顔を失くしたくだけだ。それなのにどうだろうか。まるで腫物に触るかのような扱いを受けてしまう。


 誰が悪いわけでもない。けれどそこには巨大な意識の壁を感じる。おそらく誰でもそう思うだろう。
 しかし、ぼくの妻は何も言わず、何も変わらず接してくる。ぼくには同情しているのか、憐れんでいるのかわからない。次第にぼくの不安と孤独は広がってゆく。化学研究所に勤めているせいか、ぼくは妙に理屈っぽい。そこが歪みを感じさせる。しかしそこに安部公房らしい思考の展開が見みえる。
 この話は「おまえ」である妻に宛てた手紙で始まり、ぼくが「おまえ」につづった3冊のノートの独白によって描かれている。

 ぼくは離れてしまったような気のする「おまえ」と、以前の自分を取り戻すために、自己の技術を駆使して表情のある仮面の作成に着手する。

 リアリスティックに描かれている場面だ。仮面に使用する材料の成分なども細かく書かれているし、またぼくは表情を本物にするために、見も知らぬ男から顔のカタを取りつけるという綿密さで仮面を完成させてゆく。


 安部公房はこの「顔」の喪失に伴い、ぼくが体験するさまざまな問題を読者に提示しているといえよう。ぼくの側から描かれてはいるが、常に「君がこのようになったらどうするか」「君の周りにこんな人物がいたらどうするのか」と。

 そうして初めて、いかにわれわれが「無意識」に他人に接しているのかということがわかるのである。


 人間の価値は外見(顔)ではないと言うだろう。だが果たして本当にそうであろうか?顔が美しければ許されるが、醜いがゆえに辛酸をなめる、そんな経験を否定できる者はいないだろう。
 目は口ほどに物を言うともいう。もし突然顔がなくなったら、言いたい事の半分の正確には伝わらないのではあるまいか。
 それほど、顔というものの比重は大きいのだ。


 安部公房は『壁 第二部/バベルの塔の狸』の中で、「無表情」についてこう書いている。


「無表情はやはりひとつの表情で、ごく小さなこわばりだ。微笑こそ表情の三角形の中点、完全な無表情であったのだ。感情によって表情がつくられるのではない、表情によって感情がつくられるのだ。」


 このように描く安部公房が、「表情」どころか「顔」そのものを失くしたこのぼくを、どれほどの異端者と考えたであろうか。

 仮面を手に入れたぼくは、仮面の試行に入る。
 誰かケロイドの「ぼく」だとわかってしまわないか、そのことに怯えながら街に出る。しかし不安は杞憂に過ぎなかった。誰もぼくがぼくであるとわからない。わかるはずもない。なぜなら、ぼくは誰でもない「他人」の仮面を付けているのだから。ぼくが誰でもないのなら、ぼくは自由だ。ぼくは何でもすることが できる。
 自分というものの存在意義を求めて仮面を作ったが、仮面というもう一人の「顔」はぼくを定義付けてくれはせず、「仮面」という別の一人が存在し始めた。すなわち、ぼくの中にもう一人の「ぼく」――仮面の誕生である。

 仮面のアリバイは完璧だ。
 ぼくはこの仮面のアリバイを使って、まるで今までの世間(ひとびと)に報復するがごとく何かの「行為」をなそうとする。それはまた、仮面の存在を定義付るためでもあっただろう。
 ぼくが成さんとする行為――「自由」を得たぼくは何でもする事ができる。……たかり、ゆすり、追い剥ぎ?

 だがそういった犯罪はどれも自由をあがなうための資金調達という面が強い。それでは、手段を交えない、純粋な目的とは何か?
 ぼくはこう語っている。
「必要ならば、先に結論を言ってしまってもかまわない。性欲だったのである。」
 ぼくが取り戻したかったのは、つまるところ妻との関係だった。そこに、ぼくは「ぼく」の存在を見つけようとしたのだ。


 ぼくは仮面を作った最大の目的であり、最大の賭けでもあった、もう一人の「新しい」ぼくの姿で妻と出会い、妻を誘惑する事を果たす。
 おまえはぼくだと気づいただろうか……道を尋ねてみる。食事に誘う。「ちょうど、主人が出張中なものですから…」という妻。おまえはそんな女だったのか、と思う反面、もしやぼくだと気づいているのではあるまいか、と妻の一挙手一投足を気に病み……


 また、計画は上手くいっているのだという安心感もある。ここで、「ぼく」と「仮面=もう一人のぼく」と「おまえ」という、図面に引けばただの直線になってしまう、およそ「非ユークリッド的な」三角関係が成立していた。


 ぼくは妻を抱き、何度も仮面をむしり取りたい衝動にかられる。仮面を獲た「ぼく」は分裂症か、多重人格的な要素を持ち始める。

 確かにぼくであるはずなのに、自分ではない「他人の顔」の仮面を着けると、まったくこの「ぼく」は役立たずだ。

 彼の精神はもう一人の、完全に「新しい」自分を本当に求めていたのだろうか?

 妻を取り戻すことで「今までの自分」を取り戻そうとしたのではないだろうか?

 そしてそこには激しい二律背反が存在する。
 ぼくがうその出張から帰ると、妻はいつもと変わらなかった。その後も仮面と妻は逢い引きをし、ついにぼくは今までの全てを妻に伝えるべく、筆を取ったのだった。

 

 3冊のノートと妻に宛てた手紙。この先は「自分だけのための記録」としてノートを逆さに使って書き足されている。
 妻一人で向かわせた部屋には3冊のノートと、手紙の裏のメッセージだけが残されていた。妻からの返事が、手紙の裏に書かれていた。
 それはぼくを、驚愕の底へとつき落とした。妻は、
「あれは、あなただと最初(はじめ)から知っていました。仮面はあなたの優しさだと思っていたのに。」


 あなたは仮面を自分から逃げ出すための隠れ蓑としか考えられなくなってしまった。それでは仮面ではなく、 別の素顔と同じ、、、、、、、ではありませんか。あなたは仮面の扱い方を知らなすぎたのです。その証拠に、あなたは何をすることもできなかった――

 ぼくの精神は崩壊してしまったのだろうか。
 結局のところ、 妻を、、、 誘惑する以外何もしなかった、、、、、ぼくだが、今ここで心理のスペクトルの変化によって、みにくいアヒルの子が白鳥になったように、飛翔してみせよう、と仮面の試行中に入手した空気銃を握りしめる。
 それは妻への抗議なのか。
 本当に、今までの自分ではない 、 新しい自分の顔、、、、、、、 を求めての行為なのか――
 だが、この先は決して書かれることはない。なぜなら、彼自身が「書くという行為は何事も起こらなかった場合だけに必要なことなのである。」と最後に記しているからだ。

 

 シュールレアリズムの作品を多く描いた安部公房の作品の中で、この『他人の顔』は現実を 越えていない、、、、、、部類に入るだろう。

 壁に描いた絵を喰っていつしか壁そのものになってしまったり、あるいは夜中に屋根の上を飛ぶ男を目撃したりすることはない。
 けれども、ぼくの思考を読み進めていくうちに、徐々にこのぼくが、現実的であるがゆえに生まれた歪みという恐怖がかいま見えてくる。それは社会に生きる人である誰もが持っていると認識せざるをえない。
 「変身願望」というのはこのために現れてくるものなのだろうか。自分ではない自分、日常という普遍的で安定した、その代わり全てが画一化された世界からの脱出。異端になることを恐れるがゆえに強く求める、「自分」という個の存在意義。


 安部公房はこの「自己」とは何かを問う。そしてこの「自分」の棲む「世界」とは何であるのか。
 顔がない、名前がない、確かなもの(その定義は何であろう?解剖された屍体か)がない、それだけの理由で「別物」扱いされる。では「 真実ほんもの」とは何なのか。

 顔があったからといって、きみがきみであるという保証は何もない。きみは本当は砂漠の中に建つ城の壁の一部であるかもしれないのだ。


「終った所から始めた旅に、終りはない。墓の中の誕生のことを語らねばならぬ。何故に人は かく在らねば、、、、、、ならぬのか?」

 

 自己を求める旅に終りはない。
  人間ひと が「世の中」で暮らす限り、旅の果てはやってくることはないだろう。世界の砂漠の中で、どうどう巡りするしかない旅であったしても、だ。
 われわれは知らずに、透明な壁に囲まれて暮らしているのだから。


note :
アップするにあたり、加筆・修正を行った。
書いた当時はまだ10代で若く、幼かった。研究ということががわかっていないので、ほとんど堅めの読書感想文と化している。安部氏の研究はしたことないが、コクトーとかの影響も強そうだし、臨床面からも掘り下げる点が多そうだ。素晴しい評論も多いのではないだろうか。
一番好きな作品は『バベルの塔の狸』です。

他人の顔 (新潮文庫)

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