読書百冊意自通ズ覚書

読んだあと、何かしらの余韻を残していく物語たちを、みんなどんな風に読んでいるのだろう?The note of reading one hundred books makes you understand more clearly.

ホテル・ニューハンプシャー/上下

たいていの名作がそうであるように、この本もわかるようなわからないようなこと (それは物語を読み進めていくうちに次第に鮮明になり、しまいにはすっかり理解される)が冒頭にこと細かに――そう、たいてい執いくらい入念に書かれているもの なのだ、なぜか――述べられていた。

 ウィン・ベリーとフロイト(こっちの)の出会い、ステイト・オ・メイン(アール)との生活、メアリーとの結婚、そんなようなことだ。

 それはあまりに長く、しばらく冒頭だけを読んで、うっちゃってしまっていたくらいだ。

 しかしまさに気分は暗中模索だった冒頭部分も、ほどなくして面白味が出てきた。語り手のジョンが登場するようになったから、話がわかりやすくなったのだろう。


  久々に面白い本だった。 スラスラ読めるし(翻訳もすばらしいが、アーヴィングの文章がうまいせいだろう)、展開は予測がつかない――まさか前編の時点でオーストリアにいるフロイトが登場するとか、テロリストたちと対峙、、するなんて考えもしないだろう――し、とにかく先が知りたくて知りたくて、どうなってしまうのか、追いかけるように読んだ。

 
 登場人物はみんなすごく個性的で変わっているけれど、状況は淡々と描かれていた。だからテロリストたちとやりあうことになった時はさすがに驚いた。
 そして、テロリストに「車を運ぶ役」フロイトが与えられる前まで、私はしきりに「頼むからウィン・ベリーはやめてくれ」と祈るように思っていた。
 犠牲になったフロイトは可哀想なのだが、「ウィンじゃなくてよかった、という安堵感の方が勝ってしまった。 これもウィンの人柄というところだろうか。

 多くの悲しみが描かれている中で、特に心打たれたのは、母さんであるメアリー・ベリーと末の弟のエッグが、沈むことのない悲しみ(ソロー)と共に海に墜ちてしまったところだ。別々の飛行機に乗ったところでこの結末はうっすらと見えていたが、それでも悲しみがなくなるわけではない。
 そして悲しみは漂う。

 ウィン・ベリーが開業しないホテルを”ホテル・ニューハンプシャー”だと思っている場面は、ひとつひとつが切ない。
 また、アイオワ・ボブの突然の死にも胸は痛む。そしてリリー。
 
 リリーは死んでしまうのだろう、と読んでいるうちに感じるので、その死は驚きではないけれど、やはり切ないものが残る。
 リリーが最後にフランクにメッセージ を残したのは暗示的だ。

 リリーの死について、ジョンはこう見解を述べている。
「リリーを殺したのは書くことだと思う。書くことにはそれができる。彼女を燃え尽きさせたのだ。書くことの自己虐待を受け入れられるほど大きくなかった。自分自身をたえずかじり取っていくことに耐えられるほど大きくなかった。」(下巻/p.349)

 作家は身を削って物語を紡ぐのだと、アーヴングは考えてるのだろう。個人的に全く同意見だ。
 そしてジョンは「ぼくたちには、利口な、よい熊が必要なのだ。」(下巻/p.406)と言っており、これはつまり羊男[1]のことかもしれないと私は考え、そして鼠や五反田君[2]は「よい熊」を見つかられなかったのだ――そしてリリーも――と思った。
 
 物語が終ったあとのことについて。
 それはつまり解説のことです。

 リリーについてジョンが語った、上記の抜粋部分と同じように、もうひとつアーヴィングと意見が同じ箇所があったので、抜粋する。

「彼(アーヴィング)自身は自分の文学上の位置について次のようにいったことはよく知られている。「私の小説は、現代の文学の主流からはずれている。けれど、現代の文学が、真の文学の主流からはずれているのです。」と。(中略)彼が書いた「カートヴォネガット論」や「センチメンタリティの擁護」から窺い知ることができる。それによると、読みやすい小説はとかく批評家の受けが悪く、芸術性がないと思われがちだが、むしろ読みやすくておもしろい娯楽に芸術が結合した作品を作るほうがよほど骨が折れる」(下巻/p.419)

 現代文学では、読者に面白いと思わせる作品と「文学」とされる作品との乖離が見られる。
 しかしアーヴィングは「現代の文学が、真の文学の主流からはずれている」と言う。確かに、考えてみれば古典もそもそもは娯楽だったはずなのだ。

 また、「読みやすくて面白い」点への言及も、ひじょうに重要な指摘である。
なぜなら、そういう作品について、批評家は肯定的でないため、触れることがない。すると、「読みやすくて面白い」小説は、文学的価値を認められる機会がいつまでたっても来ないないわけである。アーヴィングの言う「芸術性」というのは、「文学性」とした方がよりわかりやすいだろう。平たく言えば、文学だと思ってもらえないのだ。
 この解説には大きく頷かされた。

 アーヴィング自身、この『ホテル・ニューハンプシャー』はおとき話だと言っているらしいが、実に物語的な作品だった。
 アウフ・ヴィーダーゼーエン、ジョン・ベリー。
 開いている窓の前では立ち止まらないように。
 
Original: "THE HOTEL NEWHAMPSHIRE"
 
notes
[1] ひつじおとこ。村上春樹の処女作『風の歌を聴け』から始まる一連の4部作に登場する羊のぬいぐるみをかぶった不思議な男。登場するのは2作目から。
[2] notes[1]の4部作に出てくる登場人物。鼠は最初から、五反田君は4作目『ダンス・ダンス・ダンス』にのみ登場。
ホテル・ニューハンプシャー〈上〉 (新潮文庫)

ホテル・ニューハンプシャー〈上〉 (新潮文庫)

 
ホテル・ニューハンプシャー〈下〉 (新潮文庫)

ホテル・ニューハンプシャー〈下〉 (新潮文庫)