読書百冊意自通ズ覚書

読んだあと、何かしらの余韻を残していく物語たちを、みんなどんな風に読んでいるのだろう?The note of reading one hundred books makes you understand more clearly.

文学全集を立ちあげる

まずびっくりしたのは、丸谷があまりしゃべっていない、ということだ。

 まぁ丸谷もお年だし、オブザーバーとして考えていたのかな、と思うけれど、それにしてもびっくりするくらいしゃべっていない。今までの対談では、だいたい丸谷の様々な知識や見解が展開されていくパターンだったと思うのだけど。

文学全集を立ちあげる

文学全集を立ちあげる

 
 
 それは、一つには、丸谷もお年で、若い二人に任せるか、的なところもあったと思われる。
 もう一つには、この二人の知識量と意見がハンパない。だから丸谷も、自分がわざわざ言わなくても、この二人が言ってくてるから自分は必要なとこだけ突っ込んでおけばいいや、と思っていたのかもしれない。
 そう、とにかく、鹿島・三浦両氏の人間文学辞書とも言えそうな知識がハンパないのである。
 
 あまりの博識っぷりに[1]、如何に本を読んでいないか痛感させられることになった。なぜなら、名前は知ってるけれど読んだことはない、ならまだしも、名前すら見たことも聞いたこともねえ!という作家がいっぱい出てくるのだ。それも外国文学ならまだしも、日本の文学で、である。
 ある程度は知名度はあるだろうが、マイナーなのだろう、と片づけたいところではあるけれど、この対談のコンセプトを思い出すとそうも言っていられない。そもそもこの本、架空の文学全集を作るとしたら、誰の何の作品を選出するか?という主旨の対談本なのである。
 丸谷が最初に述べているように、いわゆるキャノン[2]的なものにしたい、と言っているのだ。ということは、ここで挙げられている作品及び作家は、それなりに知り、読んでおくべきということで……。
 
 と、見聞きもしない作品てんこ盛りながらも、中には読んだことのある作品ももちろんある。漱石とか芥川とか太宰とか、外国文学でいうとディケンズとかブロンテ姉妹とかドストエフスキー、ガルシア=マルケスなどである。そういう作家に言及しているところになると、なるほど、と思うし、的外れだと感じるところはないので、恐らくこの人々の審美眼は確かで、自分が全っっくわからない作家についても、妥当な、もしくは的確な意見を述べているのだろうと思われる。
 
 とにかく、今からでも読まなければ!と再認識させられた。
 同時に感じたのは、読むべき本が多すぎる、ということだ。
 
 この架空の全集を見るとよくわかる。日本人は日本の歴史が長いので、自国の文学というものがそもそも莫大な上に、現代文学とのつながりという意味でも西洋文学にも重要な書物がたくさんあり、それにプラスして日本の古典と密接な中国文学があり(これは日本の古典を理解する上では必要最小限でもある程度、読まなければならないだろう)、さらに日本及び出版の中心・NY発の現代文学アメリカ文学、そして南米の文学……と、本当に読むべき本が多すぎる。千年以上の歴史のある自国の文学だけ見ても、相当な分量である。こりゃ大変なわけだ。
 
 そして、人間は一生に読める本の量は決まっている。とも思った。
 どんなに時間があっても、人生のすべてをかけたとしても、世の中のすべての本を読むことはできない。
 そう思うと、読むべき本は種々あれど、限られたチャンスの中で厳選する必要がある。
 そういうことのためのキャノンであり、この全集(架空だけど)なのだろう。
 
 また、最後の方の、今の若い作家が本を読まない(文学を学ばない)ゆえに才能を枯らしてしまう、という部分が印象に残った。
 感覚だけで書いてデビューして、でも読書量が少なく学んでいないので、技量が身についておらず、そのまま衰退してしまう。出版界でも、その作家が五十、六十代になることを考えて育てることはせず、十代でもヒットしそうならデビューさせて、売って終わりだから育たない、もったいない、と。
 そういうことに気づいて、デビューした後、自ら勉強したのが大江健三郎で、彼は今の作家のさきがけというか、はしりみたいなところがあるねという話だった。まことに納得させられる。
 
 文学というのは奥が深く、幅も広くて上を見ればキリがないけれど、とりあえず自分のできることから始めよう。
 さしあたって、この架空の全集から次に読む本を選んでみようか。
 

notes
[1] 
おかげで、この無知代表選手の私めは、中村光夫の近現代文学史以上に、ちんぷんかんぷんなところだらけだった。
[2]
読むべき本の規範のようなもの。欧米では確固たるキャノンがあるらしい。(本書抜粋を忘れたので記憶による)

挨拶はむづかしい

挨拶に関するエッセイだと勝手に思っていたが、何のことはない、丸谷が今まで実際にしてきた挨拶集だった。

 しかし、驚くくらい様々な場面で挨拶をしている。作家も丸谷くらいになると[1]、挨拶する機会も多くなるのだろう。かなり色々な人と交流があるのだな、と改めて感心した。明治あたりから始まった(のではないかと思われる)今はなき近代日本文学のサロン文化、というようなものを感じさせられる。
 内容そのものは、 特別面白いというものでもなかった。(失礼)きっと「挨拶の名手」は世の中にもっといることだろう。[2]もっとも、字で読んでいるだけで、その場の雰囲気とか語り口調はわからないので、挨拶としてトータルでどんなものか判断できないが。
挨拶はむづかしい

挨拶はむづかしい

 
 面白かった部分を少し。
 

「民話の主人公のやうな」

 菊地武一先生をしのぶ会での挨拶
 菊池氏の人柄を丸谷が語っているのだが、菊池先生の人物像が面白い。
 曰く、「のべつ幕なし(講義に)遅れて来るんですよ。一時間も、二時間も遅れる。(中略)講義だけぢやなくて、たいていの会議もさうでしたね。教授会だらうと、研究室の会議だらうと遅れて来る。終わりごろに出て来る。そして、今まで決つたことを引つくり返すんです」(p. 26~27)
 もちろん教授はみんなから好かれているわけだが、それにしても昔はのんきなもんだったなァ、としみじみ感じた。今の時代に同じようなことをしたら、どんなに高名な大学教授でも問題にされることだろう。そう思うと、ホントいろいろ現代は狭くなっちゃったものである。
 

「五月の風のやうな」

 村上春樹風の歌を聴け群像新人賞贈呈式での祝辞
 個人的に村上春樹には思い入れがあるので、興味深く読んだ。
 ところで、当時の群像新人賞の選考員の顔ぶれがスゴイ。佐多稲子佐々木基一島尾敏雄吉行淳之介丸谷才一、である。この中で総評するんだから、やっぱり丸谷は文壇の大御所だ。
 

「葡萄酒に当たり年があるように」

 読売文学賞贈呈式での祝辞
 中でも、これが一番面白かった。途中、木下順二の『ぜんぶ馬の話』の評が出てくるのだが、それがよかった。
「たとへば真中へんに『大日本落馬史』といふ戯文があつて、馬から落ちる話ばかりで日本歴史を縦断しています。源頼朝も馬から落ちる。芭蕉も落ちる。会津の殿様、京都守護職松平容保も落ちる。乃木大将も落ちて、人事不省になる。」(p. 170)
 これを読んで、この本、実に面白そうだと思った。何といっても着眼点がいい。シャレがきいている。
 
 この話には個人的後日談があって、あんまり面白いので、私はこのような本があるらしい、面白かろう、と家族に話した。すると家族は、
「昔の人は短足だったから、みんな落馬した。昔の日本の馬は今の西洋馬と違って、背も低く足も短かっただろうが、昔の日本人は足が短いもので、それでもみんな落馬した」
などと言う。
 
 短足だから落馬した。言われてみれば確かにそうなのかもしれないが、そんな返答をされるとは思いもよらず、ちょっと可笑しい気がした。そこで、この話を知人にメールしてみた。
 すると、馬好きの知人に次のように教えられた。以下そのサマリー。
 
「日本のもののふには、気性の荒い馬ほど珍重されていた。そのものが戦闘力を持った、猛獣のような馬を持つことが武士のステータスであった。体格は人の背丈より少し高いくらいで、昔の人がまたがっても足は地面からさほど離れなかったらしい。しかしながら、重心が低く高速移動して突撃する…そりゃ落馬も多くなるわけだ。
 自分が乗りこなせないくらい、気性の荒い馬猛獣(馬)を所有している、というのが、武士の矜恃だったのだ」
 
 なるほど、この説得力。短足だからじゃないではないか。
 落馬の原因はともかく、「大日本落馬史」なんてエッセイを書いた木下順二は祝辞に値するし、取り上げた丸谷もさすが。
 
 最初に書いたように、特段優れた挨拶が載っている、とも言えないけれど、もし自分が何か頼まれたら、この本を開いて参考にするだろう、と思う。
 

notes

[1] 一般人には知られていないが。

[2] 一般的には、丸谷は挨拶の名手として知られているが。

アムリタ/上下

吉本ばななの前回の覚書、『うたかた・サンクチュアリ』より、個人的にはずっと面白かった。妹の元恋人・竜一郎という人がうまく書けていたし、主人公・朔美の雰囲気も良かったと思う。メッセージ性みたいなものも感じられた。

 このお話の、霊が見えるようになっちゃった弟・由男や、霊を慰めることができてしまうさせ子、、、、朔美自身が頭を打って記憶を亡くしたことや、美しい妹を亡くしたことなんかが、きっと読者を癒すんだろう。
 
 そう理解するものの、個人的な感想としては、そういう部分にあまり興味は持てなかった。それはどこに理由があるのか、よくわからない。好みの話じゃないのかもしれないし、ピンとこないというヤツかもしれない。一つには、文章が軽すぎるとは言えるだろう。読みやすくていいけれど。
 
 そんな感想抱きつつ、一通りベストセラー作を読んだら、「吉本ばなな論」を読んでみるのがいいのかもしれないと思った。この作家からみんなが何を感じ、受け取っているのか、新しい側面から紐解けるかもしれない。
 
 人がどう読むか。それが知りたいから、この覚書を続けている。 
アムリタ〈上〉 (新潮文庫)

アムリタ〈上〉 (新潮文庫)

 
アムリタ〈下〉 (新潮文庫)

アムリタ〈下〉 (新潮文庫)

 

シャーロック・ホームズ最後の挨拶

シャーロック・ホームズの作品もだいぶ読んでしまったが、いつ何時その作品をひも解いても、その楽しみというものが損なわれることがない。どんな時もホームズとワトソン博士に再び巡り会える楽しみを感じさせてくれる。だからこそ、世にはシャーロキアンなる人々が存在しているに違いない。

シャーロック・ホームズ最後の挨拶 (新潮文庫)

シャーロック・ホームズ最後の挨拶 (新潮文庫)

 
 ホームズの探偵小説を読む楽しみというのは、作品そのものが面白いということもあるけれど、19世紀当時のイギリス、ロンドンを想像しながら読むのが、またその愉しみの一つである。
 
 今回の短編集で特に注目すべきは、やはり8編目の「最後の挨拶」だろう。ホームズ愛読者をして、これが最後だと思うと寂しさを感じる。
 けれども訳者が解説で言っているように、ドイルはホームズに「最後の挨拶」は述べさせなかったし、60歳(!)になった彼は「少しも衰えを見せ」てはいないのが嬉しい。
 まだまだこれから、かねてからの念願だった養蜂をし、読書を楽しみ、時折、今までと変わらぬ怜悧な瞳を閃かせ、素晴らしい英知を以て、誰も解き明かせぬ難事件を解決しているであろう彼の姿を、遠く見つめる思いでこの本を閉じることができる。
 
 20世紀最高の名探偵、シャーロック・ホームズ氏に敬意を表して。

マイ・ロスト・シティー

冒頭の「フィッツジェラルド体験」で、本書の訳者・村上春樹がいかに優れた評論家でもあるか、証明されているように思う。作品を読む前に、その内容に驚かされ、感心させられてしまった。

 むろん、タイトルに「体験」とあるように、極めて個人的な体験に基づいての記述で、それは「ある作家が読者を魅了する」という、作家の作家に対する憧憬の告白的内容であり、正確には評論とは言えないかもしれない。しかしながら、その内容は平凡な書評を凌駕する。
マイ・ロスト・シティー (村上春樹翻訳ライブラリー)

マイ・ロスト・シティー (村上春樹翻訳ライブラリー)

 
 
フィッツジェラルドの小説世界」は、訳者自身が読者という立場で書かれているため、我々と同じ視点で読むことができるし、またその文章が「作家」である著者の巧みな表現により、読みやすく、興味深いものとなっている。
フィッツジェラルドの小説世界」と「作品と生涯」のフィッツジェラルドについての解説は、こちらも評論家顔負けの内容になっている。表現はわかりやすく、ある種の小説の一節のように巧みである。
 作家である訳者が、「いったいその中の何が僕を魅きつけるのか」を「自分なりにただ掴」むために「虫めがねで覗くように文章を調べあげた」だけのことはある。ここに、研究者、もしくは評論家としても、村上春樹がたいへん優れた作家であることが明らかにされていると言えよう。
 
 収録された六つの作品すべてについて書き連ねることはできないので、心に残ったものを取り上げてみる。

「氷の宮殿」

 一番まっすぐ心魅かれた作品。
 主人公サリー・キャロルの中に棲んでいるという「一種のエネルギー」がとてもよく感じられ、その明るさ、あどけなさもよく伝わってきた。それと同時に、太陽に包まれた南部と、氷と吹雪きに囲まれた北部との対比が非常にうまく表現されている。
 太陽のようなサリー・キャロルがどうなってしまうのか、いつ南部に帰りたいと言い出すのか、息をつめて読み進め、サリーが氷の宮殿で一人迷子になって置き去りにされた時、もうだめだ、、、、、と思った。そして救出された瞬間、「家の帰りたい!」と叫び、「明日よ!」と何度も繰り返す彼女の言葉にほっとさせられた。
 サリーの心は「ハリーの心臓が凍」るよりもずっと前に、北部の雪と冷たい周囲の視線に凍てつき、とうとう粉々に砕けてしまったのだ。

「失われた時間」

 一体どんな話なのか、見当もつかなかったけれど、読み終って確かに「失われた時間」についての物語だったと感じた。

「アルコールの中で」「マイ・ロスト・シティー

 この二作品は、特に「後ろ髪を掴むように読者を引き戻していく」タイプの小説だと思う。「マイ・ロスト・シティー」は、背後に絶望の断崖を感じながらも、「厳しい現実を直視しつつ、なんとかそれを乗り越えていこうとするフィッツジェラルドの姿」が垣間見える。
 太宰の「富嶽百景」などを彷彿とさせるが、そのどちらも作家の末路を思うとき、後世の読者としては言い知れぬ思いを抱かざるをえない。

ホンモノの日本語を話していますか?

最近、「日本語について」書かれた本がちょっとしたブームになっていた。ブームの火付け役は『声に出して読みたい日本語』という本だったと記憶している。この本が売れ始めてしばらくすると、雨後の筍の如くに似たようなタイトルの本が続出した。日本語がどうとか、国語がどうとか、そういう内容の本だ。

 この本もその手の波に乗った本、に思えるし、実際内容のジャンルについては全く同じなのだけれど、この本こそ、書くのに相応しい人の著作であるというところが、他のどの本とも違うところと言えるだろう。
ホンモノの日本語を話していますか? (角川oneテーマ21)
 

 

 本書は恩師に勧められ、初めて著者の本を読んだ。 

 国語学者というから、さぞかし小難しい書き方がされているんだろう、と半ば覚悟して本書を開いたのだけれど、予想はいい意味で裏切られた。とても軽く、著者の人柄を思わせるような読みやすい文体だったのだ。

 それで、どんどん引き込まれて読めた。文章は軽いけれど内容はしっかりしていて、読み応えもあったし、面白かった。
 
 個人的に特によかったと思ったのは、「性格―日本人が語学の天才と言われるわけ」。
 日本人が語学の天才?ハテナ?である。
 バイリンガル(英語+@)どころか何ヶ国語も喋れる、というのは、外国人の方が圧倒的に多い。(気がする)
 それというのも、日本語は英語と文法の構造からして全く違うけれど、ヨーロッパ語圏は文法がよく似ているから、日本人ほど習得に苦労がないからだ、とよく聞く。そういうことならまぁ仕方がないことなのだろう。
 しかし著者は
「『日本人はいろいろな人と、違った言葉で話すでしょう。ヨーロッパ人だったら、三ヶ国語くらいの言葉を使い分けているのと同じです』」(p.10)
という。
 それくらいの違いしかないのか!と改めて驚くと同時に、日頃、英語が話せたらなァ、日本人は英語ができないからなァと茫洋と思っていた私は、なんだかすごく嬉しい気分にさせられた。
 
 それから、「文法2ー日本語だから九九が覚えられる」(p.32)にも驚いた。外国人は九九一つ覚えるのも大変なのだということがわかる。日本語って素晴らしいのだ。
 
 全体的に面白かったけれど、中でも「1知っておきたい日本語の特徴」がよかった。
 著者が、日本語(日本人)って素晴らしい言葉(民族)だというところに立って書かれている点にも、日本人として非常によかったと思うところである。
 英語や外国語ばかりに気を取られがちだけれど、日本語は素敵な母国語なのだ。

GO

直木賞作品である。映画にもなっている。

 窪塚洋介主演で話題になったけれど、個人的にはそれがよくなかった。映画は観ていないけれど、CMの効果とは恐ろしいもので、どうしても主人公が窪塚洋介でしかイメージできないし、どうがんばっても桜井も柴咲コウにしか思えないのだ。

 読んでいる間、ずっと「広い世界を見るんだ」(P.15)という窪塚洋介の声が聞こえる気がした。つまり、杉原=窪塚100%、になってしまったのだ。そしてそれはあまりいいイメージではなかった。残念ながら。
 加えて1を読んだ時、描き方が非常に村上春樹っぽいな、と思ったら――チャプター1なんて『風の歌を聴け』の冒頭にすごく似ているーー友人曰く、「金城一紀ってすごい村上春樹ファンらしいよ」とのこと。脱力。

 ということが始めにあったので、作中の「そういえば『長いお別れ』の中で、フィリップ・マーロウが言ってた」(p.184)とか「フィリプ・マーロウなら、うまいへらず口を叩いて……」(p.186)なんていう科白が、どうも背後に村上春樹[1]を感ぜずにはおれなかった。

 そういう意味で、素直にこの小説を読むことができなかったように思う。最初から何となくナナメに入って30℃だったところが、終わる頃には180℃ギリギリくらいの歪んだ視線で小説を捕らえてしまった。
 こんな先入観、いらないものだとは思うんだけど。

GO (角川文庫)

GO (角川文庫)

 

notes
[1] 
村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』が、チャンドラーの『長いお別れ』をベースにしているというのは、わりと周知のことだと思うのだが。

愛は望郷のかなたに―パーフェクト・ファミリー―

今回のパーフェクト・ファミリーは、前回のマックス編でちらりと登場していた男・デイビット編です。この人は恐らく始めの段階で登場しているのだろうけれど、覚えがない。ジョナサンの双子の兄としての認識しかなかった。

 ハーレクイン小説だけあって、このデイビットも今回の物語で驚くほど改心している。マックスの次はデイビット……やはりHQに悪人は出てこないのだろうか。
愛は望郷のかなたに (ハーレクインプレゼンツスペシャル―パーフェクト・ファミリー (PS13))

愛は望郷のかなたに (ハーレクインプレゼンツスペシャル―パーフェクト・ファミリー (PS13))

 

 

 改心したと言っても、マックスの時より多少マシ、、といえるのは、デイビットがいきなり臨死体験によって善人に生まれ変わる、というような、言ってみれば安易な変化によって改心したのではないところだろう。

 イグナティウス師という、恐らく初めてありのままの彼を受け入れてくれた牧師との心の交流、そして人々に尽す肉体労働と清貧な生活の中から、罪や己の愚かさをまず認め、悔い、改め、時間をかけて、自らの勤勉さによって変化を得たのだ。
 半世紀も生きてきて、どんなに信仰と身近になったからといって、数年間でこうも人が変わるものか、とも思うけれど、少なくとも、マックスの神懸かり的変化よりはずっと説得力があるし、あるいはこういうことがあるのかもしれないーー至心に懺悔し、努力しているならば――と思うことができる。また、一人の人間としてこういうこともあるのだと信じたい。
 
 そういう意味では、個人的にはデイビットの変化について好意的だ。それに心理学的見地からいっても、父親の過剰な期待という重圧から逃れることで自らを見つめ、変えていく、ということは大いにあり得るのではないだろうか。
 デイビットの変化を好意的にとらえられる理由のうち、彼が肉体労働に従事していた、ということのウェイトが高い。頭の中で何だかんだと難しいこと考えていても、人間何も変わりゃしないが、身体を動かすと違う。身体動かして気づいたこと本物だ。と思う。
 それにしてもデイビットを受け入れるジョナサンは凄い。この人、聖人じゃないか?帰還したデイビットにみんなピリピリして、難色を示していたというのに、当のジョスは感想の再会しているんだから、さすがとした言いようがない。
 
 しかしマックスといいデイビットといい、「悪人はやっぱりHQに出てこないのだろうか」、と思うようなストーリー展開だった。
 けれどもそれは、作者、ペニー・ジョーダンという聡明な女性が、純粋に人の善良な心というもの、他者に対する愛情というもの、人間は心の中に純真を持ちえ、その美しい内面を磨き、表面化する可能性は決して絶えないーーという、いわば人の持つ可能性というものを信じているということの表れなのだろう。こういう、凄く前向きで温かい心を「人間」に注ぎ続けいているのが、この作者なのだ。少々理想主義っぽいとも言えるけれど、個人的には好感を抱くところだ。ペシミスティックになるよりずっといい。
 
 今回もデイビットの心の動きから、クライトン家の悩み、それぞれの思いを描くのがとても素晴らしかった。心理描写に関してはさすが。
 中でも、憎むべき対象の父、デイビットを絶対に受け入れまいと頑なに心を閉ざしている娘・オリビアの描き方がとってもよかった。
 リビーの被害妄想的な精神状態、心の中での苦しみ、自分の追い詰め方なんて本当に絶妙。自分が同じような体験をした部分の心の動きを読んでいると、本当にこの通りだなと思う。作者が同じような体験をしたことがなくてあそこまで書けるのだとしたら、大いに驚きだ。(してないことの方が多いだろうけれど)
 そしてどんどん追い詰められてしまうリビーと、彼女の闇の原因を知らずに共に悩んでしまう夫のキャスパーの物語は、なんと途中で終わってしまった。今回はデイビットの帰還がメインで、リビーとキャスパーの物語はそれにまつわるサブストーリーだから当然なのだけれど、気になる。
 
 次回はそんなリビーとキャスパーのその後の話らしく、続きが待ち遠しい。パーフェクト・ファミリーの続きが待ち遠しいなんて初めてじゃないだろうか?
 しかし、あまりにもリビー&キャスパーのエピソードが生き生きして面白かったため、メインであるはずのデイビットの帰還の物語のインパクトが薄れた感が。
 
 え?デイビット、マックスみたいに善人になってチェスターに帰ってきたの?ふうん。ジョスは喜んで迎え入れた?さすがだねぇ。デイビットは恋人もできて結婚したんだ?やっぱりHQだね。
 
 で終わる。要約OK!的な……。平たく言うと、主役が脇役に食われていた。
 
 それにしもて、ハッピーエンドで終わったHQカップルのその後を描く、というのも実にペニー・ジョーダンらしい気がするものだ。ハッピーエンドのその後も、一組の夫婦には紆余曲折があるというを描くわけだ。
 つくづくこの作家は、人間の心の動きというものーー「人間」そのものを描きたいんだなと思わされる。それも彼女特有の、人間の持つ力というものを信じている、プラスの見方で。
 続編はいつ出るのだろうか。

Original: "Coming Home", 2000

青い雨傘

つくづく思うのだけれど、丸谷は文章が上手い。こう、スッと入ってくる。

 途中で少し難しい話題になっても、スッと入ってサラッと説明してまたスッと本論というか元に戻る、その辺りも絶妙だ。

 文章の学問的なことはさっぱりなのだけれど、解説の鹿島茂氏によるとこれは
「弁論術(レトリック)の定法を踏まえたもの」(p.289)
ということらしい。ふぅん。
 しかしレトリックの始めというのは「かのアリストテレス」ということだから、驚きだ。
 文章や論述というのは、近現代になって科学なんかと同じように進歩しているわけではなくて、むしろB.C.くらいの頃に確立しちゃっているのかもしれない。そこら辺のことは何せ無学なのでよくわからないけれど、現代の方が「文章を書く力が無残に低下して」いる[1]のは確かだろう。
 人間のある一面というのは、何千年も前からすでに成熟していたのである。
青い雨傘 (文春文庫)

青い雨傘 (文春文庫)

 
 
 とにかく丸谷のレトリック力云々についてはよくわからないが、日本のエッセイでレトリック構造をきちんと具えたものは「ほとんどない」が、「丸谷才一のエッセイはその数少ない例外の一つといっていい。」(p.292)とフランス文学者に太鼓判を押されると、丸谷贔屓、、としては嬉しいし、鹿島氏も「なかなか話がわかるじゃないか」などと思ってしまう。ふふふ。[2]

 本文の中で、特に気に入ったのは――これは文章の面白さ云々というよりも、個人的興味のあるなしで選ばれている――「マエストロ!」「ベェートーヴェンから話ははじまる」「昭和失言史」。
 文学者はクラシックが好きなものだな、としみじみ思わされた。しかしこの「マエストロ!」を読むとやたらと稀少だというクライバーのL.P.、欲しくなる。聴いてみたい。
 丸谷はカラヤンよりクライバーが好きなようだ。カラヤンという人は、谷川俊太郎も言ったように「かっこよすぎるカラヤン」(p.69)なのかもしれない。つい先日、テレビで見たカラヤンを思い出すと、この人、確かにかっこいい。素晴らしい指揮者だけれど、こんなにかっこいいんじゃあ、ベートーベンも演奏されて嬉しくなかったりして。

 いつも思うけれど、和田誠氏のイラストはユーモアがあって優しくていい。丸谷才一、大の贔屓イラストレーターだ。丸谷の絵も上手く描いてくれるからだろうか。

notes
[1] 覚書『日本語のために』参照。

[2] フランス文学者に対してなんという物言い。

冒険者たち

グラスハートは1巻が出た時から読んでいた。当時もうすでにこの作家の本を読んでいなかったはずなんだけど……橋本みつるのイラスト[1]がよかったから手に取ったのだろうか。

冒険者たち―GLASS HEART (コバルト文庫)

冒険者たち―GLASS HEART (コバルト文庫)

 


 しばらく続編が出ていなかったと思うんだけど、そのうちイラストも変わり、興味もあんまりなくなっていた。なので、ものすごく久しぶりに続きを開いた。

 読んでいて思ったのは、この本、自分にパワーがないと読めないな、ということ。
 それは標準以上のパワーということではなく、普通の生活レベルの基礎体力でいいんだけど、そんな本ってあるんだなぁと思った。

 それと、面白かった。フツーに。西条朱音、出てくると面白い。この子はナルト[2]と同じなんですね。ようするにど真ん中で主人公なのだ。西条に才能があると、読んでいて嬉しいし、楽しい。
「テン・ブランクが、こんなに満身創痍なバンドだなんて思わなかった(後略)」(p. 144)というライターの台詞は、テン・ブランクのパワーを感じました。空気が伝わってくるシーンだったな。

 この本をリアルタイムで読んでいた頃を、鮮やかに思い出せる。そんなビビットさがある本だと改めて思いました。
 とりあえず、続き読もう。
 
notes
[1] 最初の5冊は橋本みつる氏の絵だった。今は藤田貴美氏によって、再販されるようだ。藤田貴美も「EXIT」があるし、グラスハートにあってる気も市内でもないが…ううむ。私は断然!橋本みつる派だ。
[2] 言わずと知れた、ジャンプコミックスの「NARUTO」。年のせいか、私はナルトが好きなんだった。曲げない忍道、サイコーじゃないか。あ、自来也もイチオシ。